関東平野のほぼ中央、利根川水系の渡良瀬(わたらせ)遊水地は、面積33㎢(3300 ha)、総貯水量1億7,000万m3の日本最大の遊水地です。その一部は「谷中湖(やなかこ)」という、貯水量2640万㎥(内数)の平地ダムになっています(https://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00081.html)。
下のグーグルアースの衛星写真で、中央部の茶色部分が渡良瀬遊水地、そのうち南部分に見えている水面がが谷中湖、画面左やや下から中央下に流れるのが利根川、画面左やや上から遊水地を貫流して利根川に合流するのが渡良瀬川です。右下が茨城県古河(こが)市(足尾鉱毒事件の古河〔ふるかわ〕とは無関係のようです)、左上が佐野厄除大師とラーメンで有名な栃木県佐野市、右上が栃木県小山(おやま)市です。
(撮影日は、2021年9月30日です。本ウェブサイトの写真はすべて、クリックすると独自ウィンドウが開き、虫眼鏡カーソルで拡大表示できます。)
Jan., MMXXV
下の説明図は、遊水地内に3つある調整池の機能についての、国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所による説明です(前掲URL)。なお、最左コマで「第1調整池」とあるのは、谷中湖のことではありません。わかりにくい説明です……。
平地ダムとしての「谷中湖」は、当初ほ逆さ紡錘形で設計されたのですが、旧谷中村中心部の遺跡を避けるために縮小され、歪んだハート型に変更されています。
足尾鉱毒事件と谷中村廃村による遊水地設置の歴史はよく知られていますが、もちろんここでそれらを総覧することは到底できません。このページは、かろうじて残された谷中村中心部の「水塚(みづか、みづづか)」などと、小さな資料館の展示物を瞥見するのみです。
古河市から栃木県藤岡市の市街にいたる栃木県道9号線脇の「北エントランス」から車を乗り入れます(駐車場まで2.7km)。
全体は河川法上の「河川区域」としての「遊水地」ですが、その一部がサイクリング、ハイキング、船遊び等のためのレジャー施設として開放されています。
(ピンボケで右の看板の文字は読めません。次回撮り直します。)
北側から谷中湖へと突き出した部分に周遊路とところどころ説明板が設置されています。駐車場とトイレ、「体験活動センター」が設置されています。途中にあるのが「ウォッチングタワー」です。
以下、役場跡、寺社跡などを辿ります。
3m以上の盛り土の上に、かつては村役場の建物があったのですが、きれいに取り除かれてしまっています。
東屋はもちろんあとから建てられたものです。
谷中村にいたる合併の経緯と、「水塚(みづか、みつか、みづつか)」についての説明板です。
これは、国土交通省が作成したものではなく、「谷中村の遺跡を守る会」が文面を作成し、「栃木市」が設置管理しているということのようです。
二十世紀初頭で、人口2527人というのは、かなりの大規模な農村です。
よく反対に誤解されているのですが、「堤内」「堤外」の言葉の意味が説明されています。
水塚は、谷中村以外にも存在します。現在でも水田の真っ只中の盛り土上の住宅・納屋はよく見ます。そうとは思わなかっただけで、それらも水塚だということのようです。
現代のコンクリート擁壁で立ち上げたものは(小山市や印西町の写真)、土饅頭の水塚とはだいぶ趣がことなりますが。
役場跡から南側を一望したところです。あとで見る迅速測図によると、畑や住宅があったようですが、水塚まで平坦に整地されてしまっています。
南東へ歩くと、雷電神社の水塚の跡があります。
高さは3m程度でしょうか。
雷電神社の説明板です。
遊水地建設の着工が1910(明治43)年、概成が1922(大正11)年とのことです。一部の平地ダム化まで含めれば、完成はごく最近、1990(平成2)年です。
1917(大正6)年ころには建物は残っていたのです。
延命院墓地の跡地です。
「点在した石造物の大部分は、渡良瀬遊水地周囲堤の外側の旧谷中村合同慰霊碑へ移転しています。」とあります。「旧谷中村合同慰霊碑」は、本ページ末尾に掲載します。
この半鐘のたどった道からわかるとおり、村は完全に破壊され、金属類など使えそうで持ち運びできるのだけ持ち去って、役にもたたない石造物はそのまま打ち捨てられたのです(一部は「移転」したとのこと)。木造家屋は解体焼却されたのでしょう。何ひとつ残っていません。
現地に残された石像や石碑。
「下野(しもつけ)國都賀(つが)郡古川」「享保九甲辰天」とあります。享保(きょうほう)9年=1726年からほぼ300年になりますが、あまり摩滅していません。日本中で明治以降打ち捨てられた石仏石像石碑などは、たいていの場合ひどく摩滅して、判別判読不可能なものが多いのですが、これは驚異的な状態です。石材の材質によるものでしょう。
以上、公共建築や寺社等の例ですが、民家でも水塚の上に建てられていた例があるようです。全てなのかどうかはわかりません。
以下、iOS上のアプリケーション「スーパー地形」(サブスクでなく、1300円の買い切り超優良ソフトウェア。https://www.kashmir3d.com/online/superdemapp/)で、この地点を各種地図、航空写真で表示します。
まず、GoogleMaps の地図表示です。
画面中央の「+」は、谷中村役場の水塚で、その標高15.67mと表示しています。
以下、位置を変えず、別の地図写真を表示します。
GoogleMaps の衛星写真
冬で草が枯れていて、常緑樹がある水塚部分がよくわかります。
国土地理院の航空写真
アプリケーション「スーパー地形」の主要な表示である「スーパー地形データ」。
標高の違いを立体風表示します。「ブラタモリ」でよく使われたようです。
左側の平坦な部分は、自然地形ではなく、「平地ダム」建造と、レジャー施設化に際して、平らに整地したものでしょう。
明治初期の、陸軍参謀本部作成の「迅速測図(じんそくそくず)」。驚くほど、精細です。土地利用も詳細に記されています。ひとつひとつの家屋まで描かれています。以後のあらゆる地形図より圧倒的に優れています。ただし、位置が少々不正確で、ここではやや東寄りにずれています。
水塚が図形表示されています。役場や寺社、一部の住宅が、水塚上に建築物が載っているようです。
ただし、上の「スーパー地形データ」では、それ以外にもあきらかに盛り土が存在します。どうやら、数棟の建物が載っているような、大規模なものだけが水塚として表示されているようで、それより小規模なものや、たとえば一棟だけの水塚についてはいちいち表示していないと解釈した方が良いように思います。(なお、破線で囲まれた住宅敷地は、周囲のたとえば畑と住宅敷地との境界表示のようで、水塚の表示ではありません。)
これについては、他地域(たとえば上述の小山、五霞、印西など)についても見たうえで、あらためて検討することにします。
駐車場脇の「体験活動センター」です。洪水時に貯水した際の水位上昇を見越して、盛り土の上に建てられています。
現代の水塚です。
「体験活動センター」内の説明パネルです。
「利根川東遷」により、鬼怒川同様、渡良瀬川も独立の河川ではなくなり、利根川の支流になったということです。江戸期の「利根川東遷」事業は、江戸の洪水低減が目的という説と、鬼怒川筋から江戸への舟運路の開発が目的という説があるようですが、いずれにせよこの2つが両方とも実現します。
これにより、付け替え前はのこり60kmで江戸湾(東京湾)に流下できた利根川が、銚子まで120kmの緩傾斜を流れることになり、そこに合流させられた渡良瀬川と鬼怒川は、先がつかえて極度に洪水=氾濫傾向が高まることになります。渡良瀬川流域と鬼怒川流域の数多の農村が、世界一の人口を擁する江戸、ひいては東京の大発展の捨て石のひとつになったのです。
その結果の一端が、谷中村の常襲水害であり、2015年の鬼怒川大水害です。
北エントランスから駐車場への途中の、高さ20mほど(?)の展望台「ウォッチングタワー」から「池内水路」が「谷中湖」に接続する「北水門」を望む。
「ウォッチングタワー」の説明板です。
このころは、平地ダムの「谷中湖」はまだありません。
「ウォッチングタワー」の昇降階段脇の支柱のちょうど目の高さあたりに、「H27.09.09 台風18号による洪水時水位」とあります。
この翌日、鬼怒川流域、常総(じょうそう)市の若宮戸(わかみやど)と三坂(みさか)で大氾濫がおきます。2015年の鬼怒川大水害です(鬼怒川水害ページ)。
北エントランスのすぐ北、遊水池の外周の堤防の外側に「旧谷中村合同慰霊碑」があります。
文中の「貯水池化」は、平地ダム「谷中湖」のことではありません。「遊水地化」と書くべきところです。「公害対策」も妄言です。
「墓地を集め」というのは、要するにすべての墓を掘り起こして破壊し、遺骨を掻き集めて「納骨堂」に一括して入れた、ということです。このような墓地と遺骨の扱いは、到底ゆるされないことです。内務省(のち、建設省、国土交通省)によるとんでもない蛮行です。
石像や墓碑などを、四周の壁にコンクリート漬けにするのも、いかにも安易ぞんざいです。
これでは、「慰霊」どころか涜霊でしょう。
血ヲナガス北方 ココイラ グングン 密度ノ深クナル
北方 ドコカラモ離レテ 荒凉タル ウルトラマリンノ底ノ方ヘ
詩人逸見猶吉(へんみ・ゆうきち)の「報告(ウルトラマリン第一)」の一節(https://www.aozora.gr.jp/cards/000765/files/3055_8290.html)。
逸見楢吉、本名大野士郎(おおの・しろう)は、1907(明治40)年、谷中村生まれ、1946(昭和21)年、中国東北部(満州)の長春で死去。碑の右下の墓誌にある長安道楢信士です。
「合同慰霊碑」の外側に、遺族が1972年に建てたもので、詩文の部分は、「心平書」とあるとおり、草野心平(1903–1988)の書によるものです(https://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/SAKKA/he/henmiyukichi.html)。