大御所ブルクハルト

 バーゼル大学教授ヤコブ・ブルクハルトは、1872年から1886年にかけて、「ギリシャ文化史」の講義をおこないましたが、かれの死後、1898年から1902年にかけて、その講義草稿が『ギリシャ文化史』全4巻として出版されました。

 そのうち第3巻の第6章「造形芸術」の第2節の3が「建築」に当てられています。意外なことに全体の2%にも満たないのですが、そのかなりの部分が、ギリシャ神殿の柱梁構造の起源がエジプトにあるという主張への反論にあてられています。


ギリシャ神殿木造起源説


 ブルクハルトは、「ペリプテロス(周柱式)」型のギリシャ神殿(本尊をおさめた壁で囲まれた部屋の四周を、列柱で囲む平面プラン)は、「アジアもしくはエジプトから借用したり、またそういった国々のペリプテロス式神殿から借用する必要がなかった」と言います。その理由はつぎのとおりです。(新井靖一訳『ギリシア文化史 第三巻』1992年、筑摩書房、p. 57.)


ペリプテロスは完全な木造建築として、樹幹で作られた、一つの回廊を持つ丸太小屋として、ギリシアがまだ森林に富んだ国であったころに生じたものであろう


 「であろう」と言っているように、ブルクハルトは憶測を述べているのですが、その憶測こそ19世紀建築史学の定説であり、けっして彼の独自の見解ではありません。なおまた、原型としての「丸太小屋」として、ロージエの「始原の小屋」を念頭においているのかもしれません。石造のギリシャ神殿の原型は木造のギリシャ神殿なのであり、ゆえに石造ギリシャ神殿は石造のエジプト神殿の模倣ではありえない、というのです。この「ギリシャ神殿木造起源説」は、ギリシャによるエジプト石造神殿の模倣を否定するうえでの最重要論点であり、現在も定説であり続けています。

 しかし、その根拠は薄弱です。

 「ギリシアがまだ森林に富んだ国であったころ」とはいつごろのことなのかはっきりしない曖昧な言い方ですが、それはポリスの成立した紀元前8世紀はもちろんのこと、紀元前1200年ころに滅亡したミケーネを代表とする貢納王制の諸国家の全盛期ですらありえず、それより以前でなければなりません。地中海性気候(Cs : ケッペンの分類による「樹木気候」のひとつ。夏は高温で乾燥するが、冬は温暖で多雨。ちなみにエジプトは「無樹木気候」のひとつである砂漠気候 BW)であるギリシャは、文明以前の時代には当然全土が森林によっておおわれていたのですが、農耕牧畜がはじまりひきつづき文明が成立する時代にはいると、開墾ととりわけ羊・山羊の牧畜により森林は急速に消退し、石灰岩の露出する丘陵にまばらに潅木が生え、そしてオリーブ、ぶどうなどの人工林がひろがる景観が支配的になります。その樹々のあいだでは麦が栽培されました。ミケーネ文明の繁栄期はすなわちギリシャの森林の消退の時期でもあったのです。ミケーネ遺跡が、ことごとく石造建築だったのは当然のことです。photo2のミケーネ遺跡の周囲の写真を再度かかげます。背後がイリアス山、ふもとの一段高いところにミケーネ王国の城塞の遺跡が見えます。夏のさかり(7月末)なので、草も枯れています。かなたの山もふくめて、森林は消滅しています。もちろんこれは現在の写真ですが、ミケーネ文明時代の最盛期以降にはすでにこのような景観が広がっていたのです。

木造神殿はいつつくられたのか?

 

 さてこの木造神殿から石造神殿への転換について、ブルクハルトは、つぎのように言います。(『ギリシア文化史 第三巻』、p. 59.)

 

最初は部分的に、あとになって(天井と屋根を除いて)完全に行われた木から石への転換は、初期の時代に起こったにちがいない。ギリシア人たちが前八世紀になって植民地に広がっていったとき、石造の周柱式はすでに自明の典型として彼らといっしょに植民地に渡ったと思われる

 

 「初期の時代」というのは曖昧ですが、まさか紀元前1200年以前のミケーネ文明時代だというのではないでしょうから、ブルクハルトは、木造のギリシャ神殿は、ミケーネ文明が消滅した紀元前12世紀からポリスが成立する紀元前8世紀までの約 400年間の、いわゆる“暗黒時代”に 出現したと言っていることになります。しかもポリスの時代がはじまった時点で石造神殿への転換が完了していたというのです。おどろくべき主張です。(ただし、「天井と屋根を除いて」なのに、どうしてそれが「完全に」なのかわかりません。基壇と列柱が、ということなのでしょうか?)

 目を疑うような説です。樹幹を屹立させる列柱式神殿をあちこちにつくるとなれば、なるほど「森林に富んだ」時代でなければならないでしょう。そうするとポリスの時代はすでに「森林に富んだ」時代とはいえませんから、それ以前に巨大な神殿が建造されていたと言わなければならないことになります。とんでもない時代錯誤です。石柱のかわりに巨大な樹幹が屹立する神殿があったということ自体が幻影なのですが、この幻影を現実だと思い込んだうえで、幻影の出現年代を探ろうとするからとんでもないことになるのです。

  次の写真は、なんども掲げたコリントのアポロ神殿遺跡ですが、これは最初期のドーリア様式神殿で、紀元前6世紀のものです。紀元前8世紀から4世紀がポリスの時代ですが、ブルクハルトのいだいた幻影とは大いに異なり、石造神殿はポリスの時代のなかばにいたってやっと出現するのです。

エジプトの影響を徹底排除

 

 エジプトの模倣を否定するためのブルクハルトの論点は、さらにおかしな方向に進みます。(『ギリシア文化史 第三巻』、p. 63.)

 

〔ギリシャ神殿の〕諸形式は、部分的にはエジプトとアッシリアに起源を有することを示している。この二つの国〔エジプトとアッシリア〕における木造建築に新たに解釈を加えたものから、建築術の形式世界においては二義的であるような若干のものが借用されているかもしれない。しかしギリシアにおいてこうした木造様式をおもわせるようなものは除かれて、完全な調和が達成されているのである。奴隷的状態はすべて完全に克服され、一切のぎごちない現実のかわりに理想的な真実が生じたのであった。

 

 (アッシリアについてはいまここでは触れないことにしますが)エジプトからギリシャへ影響が及んでいるという当然の見解は、19世紀後半のヨーロッパではまだ無視できない論調として存在していたのです。それゆえ大部の『ギリシャ文化史』のなかでほんの数ページしかない「建築」の項目中で、ブルクハルトはこのことにわざわざ触れる必要を感じたのでしょう。前に触れたフレッチャーの『比較の手法による建築史』でも、ずいぶんおかしな論点をあげて、エジプト神殿とギリシャ神殿の違いを力説していました。違いがあるのだから模倣したのではない、というのです。全体として模倣したうえで細部の違いが生じたとは考えないのです。エジプト模倣のあきらかな事実について、素人の謬見だとしてこれを徹底的に撲滅するための、フランスを中心とする建築史学者らの奮闘努力の甲斐あって、現在ではギリシャ神殿が独自かつ最高の建築であり、エジプトなどとはまったく無関係であるということが、高校生でも知っている常識になっているのです。

 さて、ブルクハルトの論点を検討しましょう。エジプト神殿とギリシャ神殿を比較するからには、当然まずは石造建築どうしを比べるべきなのです。というのも、エジプト、ギリシャいずれにおいてもわたしたちが目の当たりにする神殿はことごとく石造であり、エジプトはもちろんギリシャにも木造の神殿はただのひとつも現存しないのです。ギリシャの場合、あとでショワジーの建築史を見るときに触れますが、オリンピアのヘラ神殿の石製の部材はかつて木製の部材だったものを順次石製の部材に置き換えた結果、現在の石造神殿になったとされます。これが非−模倣説の事実上唯一の証拠として提出されるのですが、それとてその途中経過を報告する紀元2世紀の古文書(パウサニアス『ギリシア案内記』)があるというものです。木造神殿の現物は、古代においてすでに石に置換されたわけですから、当然いまは存在しないわけです。エジプトについても木製の神殿は現存しません。

 唯一の伝聞情報を採用して、霧のかなたの模糊とした木造神殿の方にむりやり注意を惹きつけてしまい、現に存在するエジプト石造神殿とギリシャ石造神殿の一見して明らかな類似性から注意をそらすのです。ただのひとつも現存しないものについて、建築史の専門家から文化史の大御所まで、皆が皆、揃いも揃って、木造神殿こそ石造神殿の原型だといっているのです。現物がないのをいいことに都合よく恣意的に証拠をつくりあげているというほかありません。

 ショワジーやフレッチャーは建築史を学ぶ人なら、まずは読まなければならない古典なのでしょう。とはいえ、ショワジーとかフレッチャーなどはその世界の人間でない者には初耳でインパクトはさほどでもありませんが、ブルクハルトとなると、高校生でも知っている大歴史学者です。その大御所ブルクハルトがさも当然のように断言するとあっては、簡単に無視するわけにもいかず、素人としてはついギリシャ神殿の独自性を信じてしまいそうになるのです。

 それにしても、ブルクハルトは、一切現存しないエジプトの木造神殿から、これも現存しないギリシャの木造神殿への「借用」があるかもしれないが、それは「二義的」なものであり、結局そんなものは「除かれて」いるというのです。ずいぶん堂々たる断定ですが、しかし、いったい何のことをいっているのでしょうか? 写真はともかく図が一切ないのは、遺品のなかの講義原稿を遺族が編集したという著作の性格上しかたないにしても、部材の名称や様式等について、とりわけ「二義的」なものとは具体的に何をさしているのかさえ、ブルクハルトは一切述べていないのです。当然参考文献も示されていません。言わなくてもわかるようなことではありません。フレッチャーやショワジーなどにもこの論点に対応する記述は見当たりません。へたをすると、たんに(悪い意味で)“抽象的に言っているだけかもしれません。ところで、ブルクハルトは『ギリシア文化史』冒頭でこう言っています。(『ギリシア文化史 第一巻』1991年、筑摩書房、p. 15.)

 

われわれにとって資料となりうるのは、ギリシア古代から保存されているもの一切である。すなわち、単に著作物の領域に留まらず、あらゆる遺物、特に建造物と造形芸術がそれであ〔る。〕

 

「特に」とまで言っていたのに、まさにその建造物にかんして自ら宣言した原則を破っているのです。そうまでしてエジプト模倣を否定しなければならないという執着の激しさには、困惑するしかありません。

  

巨大な木造神殿という幻想

 

 念のため補足しておきますが、本ウェブサイトはいかなるかたちでも「木造ギリシャ神殿」など存在しないと言っているわけではありません。はっきりしているのは、石造ギリシャ神殿の石の部材をそのまま木の部材に置き換えたような木造ギリシャ神殿なるものの存在は立証されていないということです。もちろんその非存在も立証されていません。刑事事件ではありませんから、存在が立証されない以上、非存在を前提とすべきである、とまでは言いません。しかし、とりわけ巨大な列柱をそれぞれ一本の巨大な樹幹でつくることは、材料の入手という点で実際上不可能だったと思うのです。かりに、(おおくの石造ギリシャ神殿がそうであるように)太鼓状の部材を積み重ねるにしても、それだけの太さの樹木を入手可能なのであれば、なにも短く切断したうえで積み重ねるまでもないのであり、事情は同じです。

 まだまだ森林が豊富に残されていた江戸時代の日本でさえ、奈良の東大寺大仏殿の再建に際して、「柱とする材が調達できず、芯となる槻(つき)を檜板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱とした」のです(東大寺ウェブサイト http://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance4.html)。世界最大の軸組工法による木造建築だと自慢したところで、肝心の柱がこれでは少々見劣りします。中華人民共和国が1960年代におこなった天壇の建造物の再建に際しても、材料の入手が困難だったために北京市郊外の伝統的寺院である戒台寺の「千仏閣」が材料取りのために解体されたのです(現在、戒台寺では「千仏閣」再建工事がおこなわれています)。それにしても、東アジア・東南アジア・極東アジアであれば、古代にあって巨大な円柱を樹幹でつくることはありえたのですが、巨大な樹木からなる森林など存在しないギリシャ世界でそのようなことが可能だと主張することは、著しい錯誤と言わざるをえません。ごく小さなものであればともかく、たとえば直径1m以上、高さ10m以上の円柱を一本の樹幹でつくる、しかもそれを一箇所あたり数十本分調達する、さらにそのような建造物がいたるところにつくられることなど、地中海性気候のギリシャでは絶対に不可能です。

 他から調達したというなら、その調達先や輸送ルート、代価の調達方法を示してもらいたいものです。まっさきに思い当たるのは「レバノン杉」ですが、はたして“暗黒時代”のギリシャ人たちが、フェニキア人を通して「レバノン杉」を入手し得たのか、おおいに疑問です。それにしても、ギリシャ神殿木造起源説をとなえる建築史家たちが、列柱や梁が「レバノン杉」を材料としていたと主張しているわけではありませんし、そもそも建材の入手先のことなどあまり考えていないようなので、ここでこれ以上憶測を重ねるのはやめておきます。

 

建築様式の伝播を否定する建築史家たちの自己矛盾

 

 しかし、主要な論点はそこにあるのではありません。かりにギリシャ神殿が当初は現在の構造・規模そのままの木造だったということが立証されたとしても、それ自体が、エジプト石造神殿の模倣である可能性が高いのです。まったく交流のない遠隔の2地域で、ほぼ同時に(もちろん時代がずれていてもよいのですが)同様の建築様式(柱のうえに梁をわたす、柱梁構造)が発明されたというならともかく、一衣帯水の東地中海で、一方が他方の数百年後に、同様の建築様式、同じ架構手法で建築物をつくったとしたら、まずは模倣したものと理解するのが順当です(それをことさらに恥じたり隠したりする必要はありません)。

 建築家、建築史学者、文化史学者たちは、たいした根拠もないのに、口を揃えてエジプト石造神殿とは無関係に独自に成立したのだと素人相手に大合唱を続けているのですが、それはかえって自分たちの存在理由を掘り崩すことになるのです。エジプトからギリシャへの伝播すら否定するとしたら、もっと広域にわたり、もっと長期にわたる建築様式の伝播の事実をいまさらどのようにして主張するのでしょうか。エジプトからギリシャへの一見して明らかな影響すら否定するのだとしたら、およそすべての時間的・空間的影響関係はとうてい存在し得ず、すべてはその瞬間瞬間の、その場その場での発明だとみなされることになります。そうなれば建築史学などはいっさい成り立たなくなるわけです(もちろん建築だけではありません。ほかの美術分野もそうですし、それどころかあらゆる芸術・宗教・神話・思想・学問・技術・政治・法・経済において同様のことがいえるでしょう)。

 「ヨーロッパ」的なものが世界中に伝播したことを誇らしげに宣伝するヨーロッパ建築史学が、その元祖・根源として措定した偉大なるギリシャへの、忌むべきエジプトからの伝播を必死になって否定しているのはあわれな自己矛盾です。逆に、このような頑迷固陋の極みともいうべき執着が伝播の事実をかえって浮かび上がらせ、ヨーロッパ建築史学がじつはその事実を認めているという心理的事実をあらわにしているのです。

 この論点については、次の建築史の大家ショワジーに関するページで、その著作の該当ページを具体的に示した上で改めて触れることにします。

 

罪深い「木造起源説」

 

 ブルクハルトにもどります。ブルクハルトは、このページの最初に触れた「周柱式(ペリプテロス)」神殿本尊をおさめた壁で囲まれた部屋の四周を列柱で囲む平面プランについてこう言います。(第三巻、p. 59.


ある荘厳な瞬間に、民族の高貴にして神秘な力から生じたこの周柱式は、普遍的に通用するようになり、世俗的な成熟を経験し得た聖所の形式なのであった。このような形式を創造することは、いかなる時代にでも、あるいはどのような民族にでもなしうることではない


 なるほど材料となる豊富な木材の調達さえ難しいとなれば、ギリシャ人たちは「荘厳な瞬間に」「神秘な力」によって神殿を作るしかないでしょう……。

 ここまでにしておきます。

 最後に、偉大なるブルクハルトが建築史家たちに誘導されるままにこのような隘路にはいりこんでしまった事情について見ておこうと思います。ブルクハルトはじつはギリシャに行ったことがないのです。まさかと思うようなことですが、バーゼルの牧師の息子として生まれたブルクハルトは、裕福な家系に生まれたリッチな同僚らがギリシャの学術旅行をしているのを脇目でみながら、主として経済的理由でギリシャ行きを断念したようです。それから100年も経ずして、日本人学者でさえ快適なホテルに泊まりながら、チャーターしたタクシーに乗り、現地の学者仲間の案内つきで世界中の遺跡巡りをするようになるのです。

 「ギリシャ文化史」講義をおこなっている時期にブルクハルトが見たものといえば、ベルリン美術館のペルガモン祭壇、ルーブル美術館の「サモトラケのニケ」、大英博物館の「エルギン・マーブル」にとどまります。「エルギン・マーブル」を剥ぎ取られたパルテノン神殿を見るのと、剥ぎ取った「エルギン・マーブル」を見るのとではいずれが重要かは、言うまでもないでしょう(もとどおりにしてもらうのが最善ですが)。偉大なるブルクハルトはギリシャですら行けないのですから、もちろんエジプトで石造神殿を目にすることはありませんでした。

 エジプトもギリシャも見た上で、エジプトの影響を確信犯的に否認する建築史学者らの「ギリシャ神殿木造起源説」は、偉大なるブルクハルトを欺いたことになります。まことに罪深いといわなければなりません。