若宮戸の河畔砂丘 14 旧河川法時代の河川区域

 

19, June, 2019

(24.63k以南の築堤時期について訂正 19, Sep., 2021)

 

 1965(昭和40)年に現在の河川法が施行され、治水・利水政策が転換しました。その主な点のひとつが、旧河川法のもとでの「区間主義」から「水系一貫主義」への転換といわれるものです(国交省の解説としては、https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/bunkakai/dai48kai/dai48kai_siryou4.pdf)。それまで鬼怒川は、栃木県内部分については栃木県庁が、茨城県内部分については茨城県庁が管轄していましたが、これ以降、鬼怒川は「一級水系」である「利根川水系」の一部として、建設省が一元的に管理することとなりました。建設省が直轄管理する「一級河川」としての「鬼怒川」です。

 その際、建設省はそれまで茨城県庁が設定していた「河川区域」をそのまま受け継ぎ、それ以降、その河川区域境界線は、2015年まで一度も変更されることなく鬼怒川水害にいたった、ということのようです。(変わったのは、建設省が国土交通省になったことだけでした。)

 これは、水害後の2016年に、ある国会議員に対して国土交通省本省の職員が説明したことの伝聞情報です(鹿沼のダム参照)。又聞きの又聞きの又聞きであるうえ、しかもその説明の際、茨城県庁の定めた「河川区域」の図それ自体が示されたのではないというのです。当 naturalright.org としては、鬼怒川水害について嘘デタラメばかり言っている国土交通省が、この点でだけは本当のことを言ったとしてそのまま信用する理由はない、と考えます。その説明が事実であるかどうかについて、確認しなければなりません。

 とはいうものの、例によってこれほど基本的な「事実」について確認するのも、簡単にはいかないのです。水害のメカニズムというような、客観的な、自然的かつ社会的な現象について調べようというのなら難しいのは当然で、いまだによくわからないことだらけ、と言わざるをえないのですが、50年程度しかたっていないのに、建設省が受け取ったはずの茨城県庁が定めた「河川区域図」が、なかなか現認できないのです。いまや中央政府や地方政府がつくった瑣末な通達文書にいたるまでがウェブサイトで公表される時代だというのに、茨城県庁に聞いても下館河川事務所に聞いても、よくわからない、というのです。

 なにせ、前々ページで詳述したように、現行の「河川区域境界線」ですら、一切公表していないのです。「特定機密」に相当するような内部情報?だというならいざしらず、大臣告示であって、当然、国民がいつでも自由に閲覧参照できる状態にしておかなければならないものであるのに、情報公開制度による開示請求手続きをとらない限り写しを交付しないという、あきれた状態です。インターネットで即時に全部を閲覧・印刷できて当然のものが、請求から入手まで6週間と千円ほどかかるのです。

 現に効力を有する大臣告示でその程度ですから、その大臣告示が下敷きにして丸写しにした(「踏襲した」というのはそういう意味に違いありません)文書が、すぐに出てこないどころか、あるかないかもわからない!のも当然でしょう。出てきた時点で仔細に検討すべきところですが、いつになるかわかりません。上記の国会議員に説明した職員は、自分でもその図面を見ていないらしいのですから、案外国交省内部でも見た人がいない、いたとしてもみんな定年退職して年金生活者になっているのかもしれません。決着には結構な日時がかかりそうです。

 という次第で、それまでボーッと生きているわけにもいきませんから、茨城県庁が管理していた時代の「河川区域」について、周辺的な事情をあれこれ検討することにいたします。

 

(2019年6月21日追記)この件について国土交通省は、建設大臣が1966年の「河川区域」を告示するにあたって、従来の茨城県庁の定めた「河川区域」をそのまま受け継いだとされる事実を示す文書は確認できない、とのことです。存在しないことがあきらかになった、というわけではありませんが、「踏襲した」ということがまさに「推測」にすぎず、しかもその「推測」の根拠を現在示すことができないということです。500年前ならいざ知らず、そのまま写したといっているわずか50年前の行政文書がみいだせない、あるいはそのことを示すいかなる事実も見出せないとなれば、そのような事実はなかったとみなすのが妥当である、と考えます。本文を書き変えるのではなく、追記します。

 

 なお、上記「水害後の2016年に、ある国会議員に対して国土交通省本省の職員が説明したことの伝聞情報」については、鹿沼のダム参照(記事の後ろ3分の1あたり)。

 


(1)現在公表されている茨城県庁管理時代の「河川区域」

 

 茨城県知事は、1928(昭和3)年、1929(昭和4)年、1936(昭和11)年に、鬼怒川の一部区間について河川区域を決定し、茨城県告示を発しました。いずれも「茨城県報」に掲載されていて、茨城県のウェブサイトで閲覧できます。次の3号です。

 

 いずれも部分的な決定であり(3件目は変更)、茨城県内部分の全流域のものではありません。それぞれの図を、国土地理院の「地理院地図」 https://maps.gsi.go.jp/の「土地の特徴を示した地図>治水地形分類図>更新版」と「土地の特徴を示した地図>土地条件図>初期整備版」との2画面表示の脇に並べたものです。
 最初が1928(昭和3)年の、若宮戸(わかみやど)のすぐ上流の鎌庭(かまにわ)の大蛇行部をショートカットする工事に先立つ既存河道の指定、次の2枚ワンセットが1929(昭和4)年の、その上流28.5kから40k付近までの指定、最後が1936(昭和11)年の、鎌庭捷水路(しょうすいろ)への切り換え工事終了後の指定替えです。(クリックすると独自ウィンドウになり、虫眼鏡ツールで拡大します。)下流端の黒い四角はセロハンテープによる補修跡です。

 

 新たに作った鎌庭捷水路だけは、左岸堤防から右岸堤防までを河川区域にしていますが、それ以外は、いずれも高水敷は除いています。地理院地図の土地条件図(3つのうち中央)は、黄地に茶ポチが高水敷、白地に青ポチが低水敷というように、高水敷と低水敷を分けているので、茨城県告示のいう「河川区域」の意味がよくわかります。(高水敷と、河道を除く低水敷とはふつうは区別しないのですが、とくに鬼怒川については、行政的にはこのような点で、水理学・土木工学的には若宮戸と、とりわけ三坂(みさか)での破堤原因を考える上で、重要な意味をもつようです。別に検討します。)

 鎌庭捷水路は、東京の荒川放水路同様の完全な人工河川で、右岸堤防の堤内側法尻(のりじり)から左岸堤防の堤内側法尻の予定地までをまとめて官有地とし(おそらくお買い上げ)、そこに新たに両岸の堤防、ならびにその間の高水敷と河道を築造したうえで、それを全部「河川区域」にしたのです。前々ページで見たように、これは現在の典型的な「河川区域」の設定方法と同じです。

 右岸堤防から左岸堤防までの分を全部を一度に買収(召し上げ?)してストレートにつくってしまえば、端から端まで一様にしてしまうのも簡単で、何も面倒はありませんが、ほかの場所では堤防が切れ切れで繋がっていないところがたくさんあります。あちこちで、目印になる(それどころか実態的に河川と河川外との確固たる区別を画定するはずの)堤防がないのです。なければないで一貫しているわけでもなく、あったりなかったり、それどころかあるようなないようなだったりです。これでは「河川区域」の指定は俄然難しくなります。堤防があるところについては堤防から堤防までを「河川区域」にしたいところだが、それだと無堤部分でやりようがなくなるし、とりわけ接続部分で線引きがうまくいかない。だいたいこれじゃ「不公平」だ。下手に「河川区域」を広めに指定してしまうと、それを全部官有地にするためにいちいち召し上げなくてはならないから、金はかかるし手間もかかる。ええい面倒だ、「河川区域」は低水路(低水敷)と堤防だけにしちゃえ、あとは知らない、ということにでもしたかのようです。

 

 これが谷中(やなか)村だったら、栃木県知事の命令は国策で至上命題ですから、面倒も何もあらばこそ、まとめて河川区域としての遊水池に転換してしまい、買収に応じなければ土地収用法を適用して土地を召し上げてしまったのです。官有地である河川区域に転換し農地でなくなった土地に、権利もないくせに不法に居座っている怪しからぬ元農民どもと、田中正造とかいうおかしな老人を、警察を動員して蹴散らすだけです(東海林吉郎・菅井益郎『通史足尾鉱毒事件1877-1984』1984年、新曜社)。

 

 話を簡単にするつもりが、結果として堤防があるところについてはかえって複雑になってしまいました。右岸堤防のその幅だけが河川区域で、ついで区域外の高水敷があり、河川区域の右岸側低水敷・河道(水面)・河川区域の左岸側低水敷、ついで区域外の左岸側高水敷があり、最後に左岸堤防のその幅だけが河川区域という、縞々構造になるのです。横断的には境界線が6本になります。(下は、前々ページで見た、現行の河川区域についての国交省の説明図に、赤矢印で河川区域の範囲を、赤線で境界線の位置を書き加えたものです。「高水敷」の文字はありませんが、堤防敷と低水路の間、両岸で2箇所が高水敷です。)

 

 

 

 次に、茨城県内の鬼怒川のうち、利根川との合流点(現在の守谷市大木〔おおき〕地先、すなわち 0k )から、若宮戸の北端、上で見た告示により指定済みである鎌庭捷水路手前(26k )までを、一挙に指定した1937(昭和12)年11月8日の茨城県告示をみてみます。下が、全16ページの1ページ目と、その9行目にいう「附図」です(http://soumu.pref.ibaraki.jp/file/PDF/1937/193711/gai79.pdf)。

 

 

 

 「河川区域」は、ややかすれ気味ですが図の斜線部分です。白黒コピーなので「青色」はわかりませんが、斜線の両側の線だと思われます。

 そして「河川付属物」として、「堤防」が黒太線で、「水制及び護岸」が、斜線内の黒塗り(一見印刷時の滲みに見えます)で表現されています。堤防と主要な道路がまったく同じ黒太線で、とくに左岸のかつての国道294号、現在の県道357号線が、二重の堤防のように見えてしまいますが、道路については他の地図で確認できますから、区別はつきます。

 さきほどの部分指定の3件同様、堤防と「河川区域」である「河川敷」の間は、空白ですから、「河川区域」には含まれません。

 堤防はかなり途切れ途切れです。あまりにもたくさんあっていちいち指摘しきれませんが、たとえば破堤点の21k、三坂(みさか、上流側ページ、左岸の三妻〔みつま〕村の最北端)付近の堤防は、南北で途切れてポツンと孤立し、その北の石下(いしげ)町大房(だいぼう)のあたりは無堤です。

 長距離にわたって堤防のない区間があります。下流側ページ、右岸「内守谷(うちもりや)村」(現在は常総市の一部。守谷市とは別)、左岸「大井澤(おおいさわ)村」(現在は守谷市の一部)のあたりの河道は、小貝川に合流していた流路(地図中の「北相馬郡」の「郡」の文字のところ)を閉鎖するために、江戸時代に洪積台地(こうせきだいち、正しくは更新世〔こうしんせい〕段丘)を開削したものです。その後も一貫して無堤でしたが、2015年に、台地の侵食谷や河道沿いの低地で小規模な浸水があったので、このうち上流側で「鬼怒川プロジェクト」の一環としてあらたに築堤中です。

 そしてもうひとつの目立った無堤区間が、北側ページ最北端の左岸、玉村から石下(いしげ)町にかけての若宮戸河畔砂丘です。告示の翌年1938(昭和13)年に大水害があり、戦争をはさんで1952(昭和27)年に(下流側から見ると)石下町と玉村の境界まで堤防が延伸され、60度屈曲して砂丘の東側の〝畝〟(R1)に山付きするのです。内守谷・大井澤付近が更新世段丘の掘割(その前後は一種の山付き堤になっているともいえます)であるのに対し、こちらは河畔砂丘への山付き堤です。

 

 若宮戸河畔砂丘一帯では、1960年代後半をピークとする砂丘本体の掘削・採砂以前に、寄州( side bar )での大規模かつ徹底的な採砂のために地形が激変しました。国土地理院の「土地条件図」ではそれまで高水敷とされていた部分を、低水敷と表記しています。この1937(昭和12)年の告示は、この変化前の状態です。

 

 ということで、1937(昭和12)年の時点では、茨城県告示では、若宮戸河畔砂丘は全域が「河川区域」ではなかったのです。

 なお、1945(昭和20)年3月21日に、鎌庭の旧河道の堤防と護岸の指定の「公用廃止」が告示されています。不可解なのは、大形橋の上流側や宗道(そうどう)村の区画などは、1928(昭和3)年に指定された区画ではなく、いつ指定されたものであるかわからないことです。

http://soumu.pref.ibaraki.jp/file/PDF/1945/194503/n2189.pdf

 



(2)茨城県庁管理時代の「河川区域」と建設省が告示した「河川区域」の異同

 

 1937(昭和12)年の時点では、茨城県告示によれば、若宮戸河畔砂丘は全域が「河川区域」ではありませんでしたから、1965(昭和40)年施行の新河川法による管轄替えの時点での建設大臣告示(1966〔昭和41〕年)による「河川区域」とは、一致しません。

 

 堤防新造により、堤防自体の地面が「河川付属物」となるのがその違いの理由のひとつです。しかし、これは本質的差異ではなく、ここでの不一致とは別問題です。

 

 この不一致は、「河川区域」の意味の転換によるものです。つまり、1937(昭和12)年の茨城県告示では、第1ページの記述のとおり、青線で区切られ、斜線を施された、水路を含む低水敷だけが「河川区域」であり、高水敷を隔てた「堤防」と、「河川区域」である低水敷に設けられた護岸水制「河川付属物」として指定されているのです。それに対して、新河川法のもとでの建設大臣告示では、右岸堤防の堤内側(=川裏側)法尻(のりじり)から左岸堤防の堤内側法尻のまでの全範囲が「河川区域」なのです。当然、堤防がない区間では、堤防法尻がないので、それとは別の根拠に基づいて「河川区域」の範囲を決定し、「境界線」を引くのです。同じ原則のもとで、線引きが変更になったのではなく、従来の「河川区域」と「河川付属物」の定義に基づく線引きから、新たな「河川区域」の定義に基づく線引きにかわった、ということです。

 1937(昭和12)年の茨城県告示の時点では、若宮戸河畔砂丘の東側の〝畝〟(R1)には、上流端26kで、その前年1936(昭和11)年の告示のとおり鎌庭捷水路の堤防が接続していました(山付き堤)。河畔砂丘は定義上「河川区域」および「河川付属物」には該当しなかったということです。しかし、治水上なんの意味もないというものではありません

 1937(昭和12)年の茨城県告示当時は、下流側では23.75k付近で堤防が(下流から見て)途絶えていたのですが、1952(昭和27)年に堤防が24.63kまで延伸され、若宮戸河畔砂丘の東側の〝畝〟(R1)に接続しました(山付き堤)。これによっても、河畔砂丘は定義上「河川区域」および「河川付属物」には該当することはなかったのです。しかし、「河川区域」でも「河川付属物」でもないからといって、治水上なんの意味もないというものではありません

 若宮戸河畔砂丘の東側の〝畝〟(R1)は、上流側では26kで、下流側では24.63kで、それぞれ堤防(山付き堤)と接続する「山」だったのです。R2を嵩上げして築造した堤防を、わざわざ24.5kの水管橋直下で60度屈曲させてまでR1に接続させたのは、R1以外には「山」であるものがないので、必然的にR1が選ばれたということです。60度屈曲点では、R2は堤防天端より2m以上低かったうえ、その先で現在の市道東0280号線が、さらにその先で市道東0272号線がそれぞれ横断するところが切り通しで低くなっているほか、25.35k付近(のちの「B社」が掘削した部分)にも標高の低い区間があるなど、山付き堤として接続させる「山」としては不適当だったのです。

 R2に大規模に手を加えて堤防を接続するという手もありえたのですが、なにもそういうまわりくどいことをするには及ばないわけで、すぐ東隣に若宮戸河畔砂丘の最高峰であるR1が、当時はほとんど無傷のまま存在していたのですから、そこへ山付きとするのが、治水上もっとも合理的だったのです。

 それは、茨城県知事の独自判断というより、全国の都道府県庁を統制した内務省(解体後の自治省の前身、つまり総務省の前身)の方針であったとみるべきでしょう。知事は選挙によるのではなく任命制です(「奏任官」)。内務省には道路行政、河川行政を管掌する部局もあった(解体後の建設省の前身)のですから、茨城県知事の河川行政の基本方針は、まさに大日本帝国(内務省)の国策そのものであったのです。

 建設省は、以上の経緯をふまえるならば、1966(昭和41)年の時点で、R1までを「河川区域」とし、その東麓に境界線を引くべきだったのです。別に内務省時代に採用された先輩方のご意向を忖度してというわけではなく、R1を山付き堤が取り付く「山」として治水の重要な要素とした政策の意味を理解してそれを保持すべきだったのです。ところが、建設省の官僚らは、内務省=茨城県庁の判断を理由なく否定し、堤防末端から330度転回して治水上なんの合理的理由もないのに市道東0280号線の路肩を通したうえで、R2同等かやや低かっただろうR3までもっていき、その東麓に設定するという、おどろくべき線引きをしたのです。

 以上のとおり、冒頭でふれた国会議員に対する国交省職員の説明にいう、「建設省はそれまで茨城県庁が設定していた『河川区域をそのまま受け継いだ」という説明が、事実に反するのは明らかです。


 もちろん、旧河川法時代の「河川区域」の意味づけに問題があったことは明白です。大日本帝国政府(内務省)は、河道を含む低水敷だけを「河川区域」とし(「河川付属物」としての水制と護岸は場所としてはその範囲内)、それと「河川付属物」としての「堤防」だけを官有物として私権を排除するものの、堤防がある場合には低水敷と堤防との間の高水敷を、ない場合には低水敷すぐわきからすべてを、「河川区域」に指定しないという、おかしな手法をとっていたのです。実際には、若宮戸河畔砂丘を治水上不可欠の地形としていたにもかかわらず、河川法上はなんでもない土地としてしまったのです。日常語でいう、やってることと言ってることが違う、ということでしょうが、治水工事(山付き堤の築造)と、行政上の手続き(河川区域の指定)とがちぐはぐなのです。戦後の建設省もそれを踏襲していたのです。

 そして1965年の新河川法への転換時には、そのことを是正する機会が訪れました。しかし、日本国政府(建設省)は、若宮戸河畔砂丘の26kから24.63kまでの全域を「河川区域」に指定して、治水上不可欠の地形を保存すべきであるところ、敢えてそれをせず、治水上無意味な市道東0280号線と不十分な標高・地形のR3に沿って境界線を引くという、治水上、後日の重大災害を不可避とする、この上ない不当な行政行為をおこなったのです。そして、その後なんども、あわやの増水があり、設計業者が氾濫危険箇所を明示した上で築堤案を作成提出したにもかかわらず、完全無視して、2015年9月10日を迎えることになったのです。

 

 


(3)「堤外民有地」の来歴について

 

 以上の経過から、若宮戸河畔砂丘のほとんどが民有地である理由はあきらかです。旧河川法時代の「河川区域」の意味づけに問題があったうえ、新河川法への切り替え時に「河川区域」を不当に狭く設定してしまったのです。河川区域を広く設定すると、区域内の民有地を取得する膨大な作業が必要となるので、それを嫌がったのでしょう。

 次はなんども引用した建設技術研究所が築堤案作成にあたって作成した図です(http://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/waka-7-1.pdf)。凡例では「官有地」は茶とされているのに、地図上では灰の網掛けになっていますが、北端26k付近のごく狭い範囲と、24.63kまでの堤防の下だけが「官有地」なのです。26k付近は、前述の1936(昭和11)年の鎌庭捷水路建設に関連して官有地としたようです。堤防下はもちろん建造の際に官有地にしたのでしょう。それ以外は、物の見事に全部民有地です。河川区域内に民有地が残っている、などという程度の話ではなく、ほとんど全部が民有地なのです。堤防川裏側法面下と市道東0280号線部分の境界線は記入してありませんが、この境界線の河道側も全部が河川区域内です。そこでも伐採掘削のやりたい放題(前ページ参照)でしたし、もちろん境界線の東側の河川区域外の民有地でも伐採掘削やりたい放題です。河川区域の内外などまったく関係なしですから、「B社」の工事にしても「河川区域外の民有地」だったから拱手傍観したわけではないのです。たとえそこが河川区域内の民有地だったとしても、もちろんよろこんで拱手傍観したに違いありません。(実際、「A社」の森林伐採が、河川区域内の土地に及んでいたのに、何もしなかったのです。巡回ルートから外れているので、気がつきもしなかったのでしょう。)

 国交省のいうことは、よくもまあここまでと呆れるほど、なにからなにまでデタラメです。

 

 

 

 これに関連して、下館河川事務所の占用調整課という、まさにこの「堤外民有地」問題を所管する部署の職員が書いた、日付なしのレポートがあります(http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000079848.pdf 。「鹿沼のダム」で紹介されています)。

 「専門官」という大層な肩書きをもつ職員は、「下館河川事務所が行う境界確定事務とは、国が権原を有する国有河川敷地と、当該地と隣接する私有地等との境界を、書面をもって明らかにすることである」といいます。

 そして、「明治29年4月8日に旧河川法が制定され、第2条第1項により河川区域と認定された土地については、同法第3条により私権が排除された」のであるが、「旧河川法時代、特に第二次世界大戦前に行われた築堤工事のための土地買収については、図に買収地と民地との筆界線が未記入の土地が多く存在している」として、その是正の苦労話を書いています。

 

 

 最初は、河川区域境界線の内側つまり河川区域における土地の問題、いわゆる「堤外民有地問題」をはっきりさせようという課題なのかと思ってしまいますが、このページで追ってきた経緯を併せ考えると、まったくそんなことではないことがわかります。国交省下館河川事務所の「専門官」が問題にしているのは、要するに堤体直下の土地のことであり、それ以外のことは念頭にないようです。上の文と「図−3」のとおりです。

 若宮戸河畔砂丘では、まさか堤防を掘削して売りとばそうという事態があったわけでもなく、土地所有関係の登記上の問題とか言ったところで、治水にはおよそ関係のなさそうな、どうでもいいようなことに、事務所の「専門官」が取り組んでいた(いる?)一方で、ここ50年以上、事務所は挙げて、河川区域の内外を問わず、治水上決定的な悪影響をもたらすことがあきらかな(これがあきらかでないという人や機関は、その任を降りるべきです)砂丘の掘削を拱手傍観していたというわけです。