若宮戸における河川管理史

5 河畔砂丘最大の畝の掘削

 

Nov., 28, 2021

 

  樹木で覆われているのでわかりにくいのですが、画面中央に高さ6m(Y.P.=25m)以上の小山があります。1960年代半ばまで若宮戸河畔砂丘最大の〝畝〟だったRidge1が南北に連なっていた、その名残りです。小山の右の鬱蒼とした大樹のあたりがかつてのRidge1の最高地点で、高さ14m以上(Y.P.=33m以上)ありました(後に示す「は」地点)。このRidge1を樹高10mから20m以上の樹林が覆っていたのです。遠景左は下流側堤防の北端24.63k(「へ」)近くの紅白鉄塔、遠景右の円錐屋根はRidge2の最高地点(高さ8m 、Y.P.=27m以上)に建立された慰霊塔(「と」)です。(2015年10月26日=水害の翌月)

 

 

 


 

 1ページでみたとおり、複列構造をとる海岸砂丘や河畔砂丘では、海や河道から最も遠い内陸側(風下側)の〝畝〟ridge の規模がもっとも大きくなり、海や河道に近い方(風上側)の〝畝〟ridge の規模は小さくなります(上の図は、鈴木隆介『建設技術者のための地形図読図入門 第2巻 低地』、490ページ)。さらに、それぞれの〝畝〟ridge の風上側斜面は緩斜面に、風下側斜面は急斜面になります(次ページ冒頭の写真を参照)。

 冒頭の若宮戸河畔砂丘の写真は、この図と左右が逆になります。画面右方の河道方向から吹いてくる〝日光下ろし〟が、河道からもっとも遠い風下側(内陸側)に最大の〝畝〟ridge であるRidge1を形成したのです。

 若宮戸河畔砂丘においては、(前回の)東京オリンピックがあった1964年には、低水路の寄州( side bar)での砂の採取が盛んにおこなわれており、Ridge1を含む河畔砂丘本体の掘削はごく一部を除いて行われていませんでした(3ページ)。起伏があり樹木に覆われている河畔砂丘本体より、平坦で植生のない砂州の方が、採取ははるかに効率的なのです。ダムや砂防ダムの設置によって砂の供給が絶たれたうえ、乱掘によって砂州が消退した時点で、ついに若宮戸河畔砂丘のRidge1の徹底的な掘削が始まることになります。

 本ページでは、1960年代後半から1970年代はじめに、第1クォーターから第3クォーターにかけて、すなわち戦前に第4クォーターが掘削されて以来残っていた全区間で、Ridge1が掘削された経緯を見ます。これこそが若宮戸河畔砂丘に加えられた人為的改変(破壊)として注目すべき最大の事象であり、2015年水害の根本原因です。

 


1967(昭和42)年3月29日 国土地理院 KT677Y-C2-1


  1964(昭和39)年の若宮戸河畔砂丘は、第1クォーターの河道寄りの凹部分と第4クォーターがすでにアジア・太平洋戦争以前に掘削されていましたが、それ以外はもとの地形をほぼ維持していました。一部伐採された森林は畝 ridge と畝 ridge の間の谷(といっても河畔砂丘の外の自然堤防より標高は高いのですが)や、畝 ridge の麓の部分であり、その目的は耕地化だったようです。

 ところが、3年後の1967(昭和42)年の写真では、様相が一変しています。砂の採取と転売を主目的とする砂丘の畝 ridge の掘削が大規模にはじまったのです。モノクロ写真では、黒い樹木が消えたあとが灰色の耕地になるのではなく、白い砂地になります。

 

 

 掘削地点を面積の大きなものからあげると、

① 第2クォーターの、Ridge1の下流側(「は」と「に」の間)の畝が掘削され、それと一体的にRidge1とRidge2の「谷」(「ろ」と市道東0272号線の間)が低平化

② 第1クォーターの25.80k付近で横断的に森林伐採(掘削はしていない模様)

③ 第3クォーターの24.75k付近のRidge1の森林が伐採(畝が掘削されたかどうかは不明)

④ ③の北西隣のRidge1とRidge2の谷が掘削

⑤ 第3クォーター24.63kと24.75kの間のRidge2の東側畝の掘削

 

 「いろは」の符号を付した特異点は次のとおりです。

い:迅速測図に記されていた「第六天」神社(現在は跡地に石碑がある)

ろ:2015年9月10日の氾濫で流失するまでridgeの「谷間」に建っていた碑

は:迅速測図に記されていた三角点(おそらく若宮戸河畔砂丘の最高標高点で、現在その付近に丘が残っている)

に:Ridge1のなかで、第4クォーターを除いて、最初に掘削された地点

ほ:Ridge1の掘削されずに残った丘(墓地)

へ:アジア・太平洋戦争の戦死者の慰霊塔部派仏教のパゴダ風)

と:Ridge1の掘削されずに残った丘(墓地)

ち:Ridge1の掘削されずに残った丘(十一面観音堂)

 


伐採・掘削と土地の区画の相関

 

 森林の伐採や砂丘の掘削は、直線で区切られた長方形の区画ごとに各個に着手され進行しています。区画を跨ぎ広い面積で一体的に伐採・掘削されることもありますが、その場合でも周囲との境界は直線になっています。それらは、地方法務局が作成する公図に描かれた土地所有の境界線と一致します。

 ただし、Ridge2とその東側の「谷」にまたがる場合など、ひと区切りの土地(一筆〔ひとふで・いっぴつ〕)のうち、一部分だけが伐採・掘削されることもあります。また、もとは一筆の土地だったものが分筆されたうえで、一方だけが掘削され、他方は掘削されていないように見えるところもあります。複雑な事情が絡んでいるようです。

 公図に背景地図を重ねたものを、2014年の建設技術研究所の設計図書から引用します(http://kinugawa-suigai.seesaa.net/category/26365120-1.html の「若宮戸 4)」の第4章、4-4ページ)。

 若宮戸河畔砂丘における「官有地」(国有地のことをいまだにこう言っています!)を示すための図です。凡例の色とは違っていますが、下流側の堤防敷(堤防のある土地)と、上流側の堤防敷の一部の濃い網かけだけが「官有地」です。筆界線は建設技術研究所が重ねた背景地図とズレているうえ、解像度が低くて文字が読めないなどきわめて雑な仕事ぶりですが、それも作為的なもの、すなわち「公図」(不動産登記法14条地図もしくは14条地図に準ずる図面)そのものではなく、交付されたpdfをもとにして作成し直したもののようです。描き加えられている茶の河川区域境界線は、1966年告示図とはかなりずれていますし、なんと途中で途切れています(このあと見るのですが、これが肝要です)。下館河川事務所が納入物の点検を怠っているか、もしくは共同してデータを変造しているのです(最近の例は、別ページ参照)。

 それに1968年の航空写真を背景にしてridge の概形および1966(昭和41)年告示の河川区域境界線、距離標示を描き加えたものを示します。土地の所有者まではわかりません(登記簿を閲覧すればはっきりしますが)。ひとりの所有者が複数の区画を所有することもあります(たとえば、24.63kから25.00kまでの、Ridge2からRidge3にかけての慰霊塔(「へ」)とその周囲の駐車場・前庭などの土地は、近くの稲葉燃料の経営者が一体的に所有しています)。Ridge2の25.35k前後200m区間を掘削して設置された太陽光発電所の区域は、同様にひとりの地主が所有していた数筆の土地が一括して県外の業者「B社」に譲渡されたものでした。


1968(昭和43)年8月22日 国土地理院 MKT682X-C2-19


 前年3月の写真より解像度が高く、状況がよくわかります。このわずか1年5か月のあいだに、急速に伐採・掘削が進行しています。

 

 1952(昭和27)年に24.013kから延伸された堤防(橙線)がRidge1に「山付き」したのが24.63kの「と」地点です。その西側(河道側)で、孤立したridge(黄線)を掘削している最中です。このあと、地下水を汲み上げて水源にする陸田になります。2015年9月に24.63k地点で氾濫した後、仮堤防が設置された場所です(6ページ参照)。

 第1クォーター下流部から第2クォーターを拡大し、公図の筆界線と重ねます。1960年代前半、まだ砂洲での採砂がおこなわれていた時には、市道東0272号線が搬出ルートだったでしょうから、市道の起伏を均すために、「に」脇でRidge1はすでに掘削されていたかもしれません。

 ここを嚆矢として、1960年代後半に第1クォーターの下流部から第2クォーターにかけてのRidge1は、「は」の小さな丘を残して、完全に掘削されました(D)。ひとりの地主が全部を所有していたのではないようですが、諜し合わせたかのように一斉に掘削されたのです。緑実線が迅速測図におけるT.P.=20m、緑破線がT.P.=30mの等高線で、「は」地点にはT.P.=32.25mの三角点があったのですが(Y.P.値はT.P.値に0.84m加える)、ぺージ冒頭の写真のとおり現在は「は」の痕跡丘と「ほ」以外には、かつての姿を思わせるものは一切ありません。 

 「ほ」は、墓地になっていて、現在も標高27m以上の丘として残っています(右は2003年の測量図と2020年4月20日のGoogleEarth Proの衛星写真の重ね合わせ)。市道東0272号線沿いの細長い土地の所有者が掘削したため(A)、北面は絶壁になっています(下左写真は丘の頂の墓地と北面の絶壁。2021年4月)。かなり深くまで掘削した後、市道沿いに一時ビニールハウスが設置されましたが、現在は手入れされていない竹藪になっています(下右写真)。


 Bも同じように深く掘削されて陸田になり現在にいたります。

 Cの数区画はひとりの地主の所有地のようで、Ridge2が東に膨らんでいる部分(*印)を含め、Ridge2とRidge1の「谷」から東側のRidge1まで、一体的に伐採掘削されて低平化しました。このあと一時家具工場が立地しますが、短期間で撤退して空き地になり最終的に人手にわたります。そして、2014年に*印部分の掘削後に残っていたRidge2(黄線)を含めて掘削され、太陽光発電所がつくられることになるのです(常総市役所の杜撰な対応により森林法違反の森林伐採と砂丘掘削が一挙におこなわれた経緯については、別ページ参照)。(「*」につき、2022.1.7 加筆)

 「ほ」から「と」までのRidge1は、砂が剥き出しになれば白く写るはずですが、まだそうなっていません。樹木が伐採された段階で掘削はまだのようです。


1972(昭和47)年9月18日 国土地理院 MKT721X-C8-1

 

 4年後、「高度経済成長」期最後の時期の写真です。第2クォーターの市道東0272号線添いに小林牧場の鶏舎が建築されました。ぎりぎりでRidge2は掘削されていないようです。

 第3クォーターの「ほ」から「と」の間のRidge1の掘削の真っ最中です。

 Ridge1があらかた掘削され、Ridge2との間の「谷」と一体的に低平化されています。かなり深くまで掘り下げるので地下水が滲出してくるのでしょうか、湿った砂が灰色に見えているようです。あるいは、雑草かも知れません。掘削後1年もすれば雑草だらけになります。「ほ」と「へ」の間の一部は耕作地のようです。

 このあとの航空写真を通覧すると、市道東0280号線北側の一画だけは稲田になりますが、ほかは荒地のまま2015年の水害に至ります。

 次の2枚の地上写真は、水害の2か月後、2015年11月19日のもので、この区間のRidge1だったところの中間地点(「ほ」と「と」の間)から、上流側(画面右方)と下流側(画面左方)を見たところです。

 1枚目の上流側に見えている住宅は、河畔砂丘東麓の自然堤防上に建っています。Ridge1はその自然堤防より2m近くまで深く掘削されたようです。

 2枚目は、下流側を見たところで、仮堤防と上空の高圧送電線、その先に鬼怒川水管橋が見えます。水溜りは市道東0280号線北側の稲田だったところで、さらに深くまで掘削されていたことがわかります。

 


 前ページで見たとおり、この区間の河川区域境界線(赤実線、1966年告示)は、上流側ではRidge3(青線)の東麓、下流側ではRidge3を斜め横断して西麓に引かれています。

 このあたり一帯は、近くの石油・ガス業者の稲葉燃料の経営者の所有地で、このあとRidge2の最高標高地点(「へ」)に慰霊塔が建立され、河川区域の内外にまたがる土地には「運動場」や庭園、毎年挙行される盛大な慰霊祭のための駐車場が整備されることになります。

 注目すべきは、河川区域内の土地と河川区域外の土地が、一体的に(おそらく同時に)伐採のうえ掘削されていることです。というのも、河川区域境界線の内外で地表の状態にいささかの差異もないのです。河川区域外であれば森林伐採や地盤の掘削に何の規制もないわけですが(市役所への届出は必要ですが、例の「B社」の事例のとおり、事実上野放し状態です)、河川区域内における行為も完全にフリーだったということです。下館河川事務所はこの掘削低平化を認容していたのです。

 Ridge1の掘削という点では、複列構造をとらず単列構造となっている第1クォーターでも掘削が始まっているのですが、これについては、一応それが完了した段階の1975(昭和50)年の写真で検討することにします。

 


1975(昭和50)年1月3日 国土地理院 CKT7418-C106B-29

 

 やっと国土地理院の航空写真がカラーになります。ネガ(陰画)のカラーフィルムではなく、より粒子のこまかいポジ(陽画)のカラーフィルム(リバーサル・フィルム)です。

 この29番の写真は、若宮戸河畔砂丘がフィルムの周縁部に映り込んでいますが、そのため、東側からの斜め画像になっていて森林や〝畝〟の東側面がよく見え、樹高や〝畝〟の段差の具合がよくわかります。すなわち、慰霊塔建設予定地(「へ」)は樹木が伐採されたもののridgeは掘削されていないこと、小林牧場鶏舎の東側も同様であることなどがわかります。

 2年3か月の間に新たに伐採・掘削されたのは、(このあと建設される)水管橋と市道東0280号線に挟まれたRidge2の分枝の地点です。これは2015年9月の24.63kでの氾濫の原因ではありません。この分枝部分がそのまま残っていたとしても、もともと下流側(24.50k前後)に〝畝〟ridge の切れ目があったわけですから、氾濫を防げるわけではありません。そして、Ridge2本体は堤防の60度屈曲点よりはるかに低く、市道東0280号線が少々切り通しになっているのですから、いずれにしてもここで氾濫することには変わりありません(別ページ参照)。

 第2クォーターのRidge2の東側、消滅したRidge1との間の「谷」だったところに家具工場が建てられました。短期間で撤退して空き地になり、2014年に「B社」の太陽光発電所が作られることになる地点です。

 注目すべきは、第1クォーターにおけるRidge1の掘削です。第1クォーターでは砂丘は複列構造にはならず、単一のridgeすなわちRidge1だけの単列構造となっています。25.80kあたりで横断的に伐採されている区画が見えますが、〝畝〟ridge の掘削には至っていないようです。

 問題は縦断方向の直線的な掘削です。西側(河道側)の斜面を残して、Y.P.=30m以上あった〝畝〟中軸線と東側の斜面が縦断的に全部掘削されてしまいました。第1クォーターの拡大写真の次は、「地理院地図」の段彩図を重ねたものです。北西から光を照射した陰影なので、偶々ここでの東側の絶壁がクッキリと表現されています。図中の橙矢印は、下の写真の撮影方向です。枯草が見えているのが約5mの絶壁です。(2015年10月26日)。

 これ以前の第2クォーターと第3クォーターでのRidge1の掘削は、片斜面を残すのではなく、とにかく全部掘削してしまうというものでした。全部消滅させたところで、Ridge2があるから氾濫は起きない、と考えていたのかもしれません。実際には、25.35k付近と24.63kで計画高水位を大きく下回っていた(さらに市道東0272号線がRidge2を横断する地点で、計画築堤高を大きく下回っていた)のですから、考え違いなのです。おおかた何も考えずに只管に掘削した、というところでしょう。


 比較のために、第3クォーターについて見てみます。Ridge1はすでに存在しませんから、見るのはRidge2にかかる筆界線です。Ridge2の西斜面から市道東0283号線を挟んでRidge3全部を含み、Ridge4までの、おそらく全部が稲葉燃料店のものでしょう。

 問題は、Ridge2の東斜面です。

 航空写真だと東斜面は日陰のひと連なりの線になっていてよくわからないので、公図だけにします。

 Ridge1とRidge2の「谷」の土地と、Ridge2の東斜面の土地とを分ける筆界線はありません。一筆(ひとふで、いっぴつ)の土地区画のなかで、掘削する部分と保存する部分とを分けていたということです。

 

 一方、第1クォーターは単列構造なので、第2クォーターと第3クォーターのように全部掘削するのは遠慮し、西斜面だけは残したということのようです。ここでの疑問は、西斜面を残すという判断は、誰が、どのようにして下したのか、ということです。

 さきほどの公図をもう一度参照します。

 残された西斜面と、掘削された〝畝〟の中軸部と東斜面とが、一見別の区画になっているように見えます。

 

 さきに「もとは一筆の土地だったものが分筆されたうえで、一方だけが掘削され、他方は掘削されていないように見えるところもあります」と述べたのはこのことです。

 何も重ね合わせずに、設計図書中の「公図」のこの部分を拡大してみます。画面中段の横一直線を境にして、上(西側)は掘削されず、下(東側)はスパッと掘削され、この横一直線は絶壁になっているのです。

 

 掘削する区域と掘削しない区域を横一直線で区分した、かのように見えるのです。しかし、この図にはおかしなところがいくつもあります。

 かろうじて筆界線とそれぞれの区画の地番らしきものが記してあるのが見えます。解像度は極度に悪いのですが、地番が書いてあるか否かだけはなんとかわかります。そうすると、三角を付した区画は地番が記されていないのです。例えば、黄三角の土地は、それぞれ画面上(西側)の地番のある土地から分筆して宅地にしたものなのでしょうが、地番がありません。筆界線で区分されているのに地番がないのです。

 今注目しているのは、掘削された土地と掘削されなかった土地とが横一直線で区切られている件です。すなわち、紫一点鎖線で示したこの横一直線で紫三角の5か所と緑三角の2か所が区切られているのですが、この7か所には地番がありません。紫三角の5か所は地番のある紫丸から分筆したもののようで、この紫丸と紫逆三角地点はこのあと住宅地になります。緑三角は画面下(東側)の地番のある土地から分筆したもののようで、このあと緑逆三角地点は、前ページで「伐採・平坦地」とした26.00k標石至近の団体施設になります。

 さらに、左上の茶実線は河川区域境界線なのですが、鉤形に曲がったあと、茶丸で突然途切れています。河川区域境界線が途切れたのでは困りますが、どうやら途切れたのではなくて、着色を間違ったようなのです。この「公図」と称する図面は、凡例では「官有地」は茶にすることになっているのに、図面中では背景地図の灰緑色の網掛けになっていましたが、同様に茶実線にすべき河川区域境界線を途中から、つまり紫一点鎖線部分で筆界線と同じ灰色にしてしまったようなのです。

 右に、さきほどの緑三角の2区画を拡大したのですが、この2区画の境界線が鋏状に二重になっています。細い方が筆界線で、太い方が本来茶実線にすべき河川区域境界線なのでしょう。画面左の茶丸地点から緑三角の手前までは、河川区域境界線と筆界線が重なっているのかもしれません(そうでないかもしれません)。

  河川区域境界線すらキチンと引かれていない図面など、見るだけ時間の無駄ですから、もうこのへんで捨て置きたいところです。しかし、これが国土交通省の一般的業務遂行状況なのですから、そんなことを言っていたのでは、検討に値するものはどこにも存在しないことになります。

 国土交通省は、国民の目に触れる地図には河川区域境界線は絶対に描かないという方針でずっとやってきたのです。いかなる地図にも河川区域境界線を描かない、(地方自治体や地図会社にも)描かせないという異常な執着です。ついには洪水ハザードマップにすら描かない、描かせない徹底ぶりですが、それだと安全地帯と河川区域がどちらも白地になって区別できず、洪水時に住民が河川区域に避難することになりかねないのですが、そんなことにはお構いなしです(別ページ参照)。

 国民に対して河川区域境界線を秘密にしてきたあげくに、とうとう自家中毒を起こしたようで国交省職員自身がどこが河川区域かわからないという悲惨な結果にたちいたったのです。2015年の水害時点で、若宮戸河畔砂丘における河川区域境界線らしきものは4本(以上)あったのです。どこに引くべきだったかの話をしているのではありません。国土交通省が決めた河川区域境界線が4本(以上)あったのです。それらを、まず広域で、つぎに第1クォーター部分を拡大して示します。 

 (1)まずは、1966(昭和41)年の建設大臣告示ですが、これは前ページで見たとおり、カミソリで削った修正跡のある手描きの擦り切れた図面です。しかも、これが現地の境界標石とズレているのです。

 (2)そこで現地優先ということで測量図に基づいて訂正したのが図の赤実線です。

 (3)河川事務所や出張所で実務に使用する「管理基平面図」の線が図の苺色破線です。

 (4)そしてコンサルタント会社に作成させた築堤設計図書中の図面に描かれたのが)図の茶線(ならびに着色し損なった紫一点鎖線)です。

 

 

 このほか、今ここではいちいち触れませんが、水害後に関東地方整備局が作成した諸文書中の河川区域境界線は全部!相違しています。というのも、大臣告示のまともな原本は存在しないし、管理基平面図はその告示図面とも大幅に違っているのですが、関東地方整備局河川部の(水戸地裁に係属している訴訟の指定代理人になっているような)担当職員でさえ、それら基本図面を閲覧できない(自分の机上のコンピュータではアクセスできない)のです。ほとんどの職員は大臣告示など見たこともないようです。日本の河川行政は、すでに如何ともしがたい末期症状を呈しているのです。あちこちで河川管理の懈怠・錯誤による水害が続発するのは必然です。

 

 散々無駄な手間隙をかけてきましたが、さきほどの疑問に対する解答に到達したといえます。すなわち、若宮戸河畔砂丘の第1クォーターのRidge1の西斜面を残すという判断は、誰が、どのようにして下したのか、という問いに対する答えは、建設省(国土交通省)/関東地方建設局(関東地方整備局)/下館工事事務所(下館河川事務所)が、あの紫一点鎖線の河川区域境界線を引いたうえで、土地所有者たちを誘導した、ということです。その時期は、1960年代後半から1970年代前半にかけてです。

 にわかには信じがたい結論ですが、こう考えないことには、この一直線を境に実行された掘削という現実、すなわち一直線を境にして砂丘を温存したという現実に対する合理的な説明はつかないのです。合理的といっても、それが氾濫防止という目的に照らして妥当だったかどうかとは、別の話です。合法的だったかどうかとも別の話です。ただたんに、事実経過を辿ったうえで辻褄のあう説明としては他のようではありえず、こうでも考えない限り説明がつかない、ということです。

 他のようではありえない、というのはたとえば次のようなことです。すなわち、土地所有者(たち)が、氾濫防止の観点から、掘削しても良い範囲と掘削すべきでない範囲を判別し、砂丘の掘削による砂の転売と宅地化・耕地化を実行した、という可能性はないでしょう。あるいは、石下町役場や茨城県庁が、氾濫防止の観点から、掘削しても良い範囲と掘削すべきでない範囲を判別し、砂丘の掘削による砂の転売と宅地化・耕地化を規制した、という可能性はないでしょう。

 それにしても、河川区域境界線を偽って(誤認して?)砂丘掘削をさせなかったとあっては大問題になるので、その区間をわざと彩色せずその存在を隠したということなのかもしれません。

 

 Ridge1の掘削状況を経時的に追跡してきましたが、1970年代前半までにRidge1は、第1クォーターの西斜面と数箇所の痕跡を残して完全に掘削されてしまったのです。以下、1977年、1980年、1984年の国土地理院の航空写真を一瞥し、次ページで、Ridge1が失われたことを前提としてRidge2型河川区域境界線案を提起することの不合理について検討することにします。


1977(昭和52)年5月10日 国土地理院 CKT-772X-C5-1

 

 Ridge2を切り通す市道東0272号線わきに小林牧場の鶏舎が作られました。短い方で70m、長い方は140mの長さがあります。


1980(昭和55)年10月2日 国土地理院 CKT805-C3-22


1984(昭和59)11月22日 国土地理院 CKT-844-C3B-6