三坂における河川管理史 補論

 

「内務省土木局資料図面」を眺める

 

Aug., 2, 2020

 

 土木学会が「内務省土木局資料図面」として、河川の「直轄工事」に関する資料を公開しています(http://committees.jsce.or.jp/lib02/node/68)。このうち、「昭和四年度直轄工事年報附圖」から「昭和一二年度直轄工事年報附圖」までの6年分のなかに、鬼怒川に関する資料が含まれています。

 

 

 

 この「直轄」が曲者です。「直轄管理」と「直轄工事」とは同じことではありません。

 1965(昭和40)年に河川法が改正され、治水・利水政策が転換しました。その主な点のひとつが、旧河川法のもとでの「区間主義」から「水系一貫主義」への転換といわれるものです(国交省の解説としては、https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/bunkakai/dai48kai/dai48kai_siryou4.pdf)。それまで鬼怒川は、栃木県内部分については栃木県庁が、茨城県内部分については茨城県庁が管轄していましたが、これ以降、鬼怒川は「一級水系」である「利根川水系」の一部として、建設省が一元的に管理することとなりました。建設省が直轄管理する「一級河川」としての「鬼怒川」です(別ページ参照)。

 というのが一般常識ですから、国による鬼怒川の管理は、1965年に突然始まったのだと考えることになるのですが、それはたいへんな誤解のようです。「直轄管理」はしていなかったが、「直轄工事」はしていた、というのです。複雑を通り越して意味不明ですが、行政機関のやることにはこの手のことが極めて多いのです。一般的な用語で、特定の事柄を指すのです。しかも、通常の意味内容とはまったくズレた意味を断りもなしに(定義も実例も示さずに)与えて、素知らぬ顔をして使うのです。国民は当然誤解?するわけで、話はまったく噛み合わず、しかも噛み合っていないことに国民が気づかないうちにことがすすみ、結局行政機関が誤謬や失態を誤魔化すのにおおいに役立つのです(最近でいうと、COVID-19対応における「クラスター」がそうです。一般的に「集団」を意味する「クラスター cluster 」を、感染者の集団という特定のものを、しかも国がいろいろおかしな条件を(帰国者とか「濃厚接触者」とか、これまたおかしな意味内容を)つけて、勿体ぶってそう認定したものだけを指す、というような。別ページ参照)。

 「直轄管理」と「直轄工事〔の施行〕」は別の事柄のようで、「管理」は栃木県と茨城県がやっていたが、「工事〔の施行〕」は国がやっていた、という意味不明のことが何十年もおこなわれてきたということです。これが大問題になるのは、若宮戸における河川区域の決定は、茨城県がやっていたが、堤防の建設や改修は1965年以前から建設省がやっていた(やらないで放置した)という、意味不明の分担?になっていたからです(この調子で、茨城県と茨城県知事を峻別するとか、さらに意味不明の話になります。キリがないのです)。この点については、『鹿沼のダム』が詳細に論じています(http://kanumanodamu.lolipop.jp/OtherDams/tyokkatsuKikan.htmlhttp://kanumanodamu.lolipop.jp/OtherDams/tyokkatsuKikan02.html)。

 

 このページでは、とりあえず三坂の破堤地点付近の「直轄工事」の実施ないし不実施状況に関する記述を眺めることにします。あらかじめ結末を申し上げておきますと、この公開されている図面を見ても、よくわからないのです。なんとなく「かもしれない」くらいのことは言えますが、決め手にはならないのです。「眺める」としたのはその故です。

 一般国民向けの概要を示したものなので「かもしれない」程度なので、というのであればよいのです。その気になれば、決め手になる資料があり、事実関係を熟知する国交省職員がいて、訊けばなんでも教えてくれる、というのであればよいのですが、それが怪しいのです。決め手になる資料が結局出てこない、それどころか、もとはあったのか、それとももともとなかったのかも、わからないことがしばしばです。誰に訊けば良いかもわかりません。50年も前のこととなると、当時の担当者は全員退職しているし、半分以上はこの世にいません。

 鬼怒川水害に関して言うと、国交省本省や関東地方整備局の広報担当の職員が、わざとデタラメを言ったり(知らないのに知らないとは言わない、わからないのに分かっているふりをして支離滅裂なことをいう、用語の食い違いや、相手の勘違い・誤用を放置したりさらには捏造する、など。例:「直轄」のほか、「自然堤防」「側線」「決壊」「計画」「上流と下流」など)することもしょっちゅうなのですが、そうではなくて自分達ですら本当にわからないことが、これまたたくさんあるのです。

 

 

左岸21k付近にはどのような堤防があったのか?

 

 さきほどの内務省資料のうち、「昭和四年度直轄工事年報附圖」「昭和五年度直轄工事年報附圖」「昭和六年度直轄工事年報附圖」までは、同じ背景地図に改修工事計画などを赤で描き加えています。ここでは「昭和六年度直轄工事年報附圖」すなわち1931年分のうち、鬼怒川下流部分の図を見ます(http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/lib_draw/2013/naimusyo_s6/S6-033.jpg)。クリックすると拡大します。

 

 さきほどの内務省資料のうち、「昭和七年度直轄工事年報附圖」「昭和九年度直轄工事年報附圖」「昭和一二年度直轄工事年報附圖」までは、同じ背景地図に改修工事計画などを赤で描き加えています。ここでは「昭和一二年度直轄工事附圖」のうち、鬼怒川中下流部分の図を見ます(http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/lib_draw/2014/naimusyo_s12/S12-028.jpg)。クリックすると拡大します。

 

 複写としては、かなり精細なものですが、なにせ下流区間の全部ないし中下流区間の全部を1葉の地図にしてあるのですから、地図としてはかなり精度が落ちます。三坂の部分を拡大して、破堤した堤防がどのように描かれているか(描かれていないか)を見ようとおもいます。破堤地点が、たまたまL 21k地点なので、まず地理院地図の「治水地形分類図・更新版」に、そこに明記されているL 21kとR 21kを結んだ線を延長したものを朱線で描き入れたものを示します。一応、鬼怒川右岸・県道20号線の紅葉橋と小貝川左岸・つくば市の金村別雷神社を結ぶ線です。

 1931(昭和6)年の図のうち三坂付近を拡大したものに、治水地形分類図に従って延長した21kの朱線に相当する線を描き入れます。

 三坂付近、L21kの上流側と下流側は黒実線です。凡例にはありませんが、既設の堤防でしょう。

 

 1937(昭和12)年の図のうち三坂付近を拡大したものに、治水地形分類図に従って延長した21kの朱線を描き入れます。

 三坂付近、L21kの上流側と下流側は、さきほどの「昭和六年」版で黒実線だったものが、凡例にはありませんが、堤防のような記号になっていて、そのうち、上流側の半分くらいに朱で印がついています。地図中では破線のひとつごとに髭2本がついているのですが、凡例には示されていません。おそらく破線の旧堤拡築に、工事中を意味する髭が破線一区切りごとに2本ついているのでしょう。つまり、旧堤防を拡築する工事中ということでしょう。(破線一区切りごとに髭が4本だと竣功のようです。)

 しかし、描き加えた21kの朱線が通っている下流側の半分くらいは、何の印もありませんから、工事対象外のようです。

 なお、この堤防マークの河道側には、崖マークがあります。高水敷と砂州の段差かもしれませんが、当時の地形もわかりませんし、詳細は不明です。

 

 こうして線を描き入れてみると、原図がきわめて大雑把なものだとわかります。「昭和一二年」の方も同様に十万分の一の縮尺ですが、この程度だとこのように100m単位程度のものの詳細な位置関係を表現するのは著しく困難です。

 とくにこの付近では、鉄道と河道の間の道路が信用なりません。おそらく現在の県道357号線なのでしょうが、まったく位置がズレています。それらしい旧道があったのかと思って検討しましたが該当するものはありません。

 行政区画境界線や道路などを位置関係を確定する目印にしたのですが、それもどの程度正確(不正確)なのか、あやしいものです。

 河川の地図なのに、八間堀川が描かれていません。将門(しょうもん)川らしき川筋は描かれているのですが、色が薄く、とくに鬼怒川への合流地点(現在の篠山水門。ただし当時は水門はない)がよくわかりません。

 という次第で、この地図は、見れば見るほど「絵地図」の趣が濃厚です。

 

 縮尺五千分の一の河川図(鬼怒川平面図)でさえ、だいぶ簡略化してあり、場合によってはあきらかに現地と違っていたりするのです。二万五千分の一や五万分の一の国土地理院作成の地形図も、何枚かを見比べると驚くほど記述が違っていたり(時期を隔てた変化というのではなく)、過度の簡略化や場合によっては明らかな誤記も散見されるのですから、十万分の一程度で、たとえば今回のように三坂の21k付近の数百メートルの状況の歴史的変化を読み取ろうとするのは、無理のようです。最初に述べたように、「かもしれない」、「のようだ」、「らしい」程度の当りは付けられるにしても、決め手にはなりません。

 他の資料を探索しなければなりません。