10週間後の常総市南部

18, Dec., 2015

 

 常総市南部の三坂新田・沖新田・川崎町・平町については、八間堀川問題3ページ、新井木町・長助町については、同4ページで記述しましたので、ごらんください。これらの地域が八間堀川からの氾濫水により浸水したのだという「水海道市街地水害八間堀川唯一原因説」の誤りについて検討しました。

 

 

 「国立研究開発法人防災科学技術研究所)」(http://map03.ecom-plat.jp/map/map/?cid=20&gid=524&mid=2261)の画面です。国土地理院、岐阜高等専門学校のウェブサイト、そしてグーグルアース・グーグルマップとあわせて、今回の鬼怒川水害に関する情報をすばやく見ることのできる、もっともすぐれた地図ツールのひとつです(地図については reference4 にURLを列挙してあります)

 

 東京中心部との距離や面積比がわかるように、ズームアウトしてみました。この塗りつぶされた区域内の住宅・事業所・耕地・施設のほとんど全部が冠水し、その汚泥に塗れ、破壊されたのです。

 

 

もっとも深く長く浸水した大和橋付近

 

 水害から10週間後に、被災された方の住宅を見せていただきました。大和(やまと)橋のたもと、常総市南部の、最も浸水深が高くしたがってもっとも長く水に浸かっていた地域です。10年以上も前からたいへんお世話になっている方に、このたびは家の中まで見せていただいたもので、心からお礼申し上げ、ご紹介させていただきます。

 鬼怒川が形成した自然堤防 Natural levee と小貝川が形成した自然堤防 Natural levee との間には、「谷底平野(たにぞこへいや、こくていへいや)および氾濫原 Valley plain and flood plain 」が広がっています。いわゆる「後背湿地 Back swamp(後背低地)です(別ページで詳述しました)。この後背湿地のもっとも標高の低い中央部を北から南へと縦断するのが「八間堀川(はちけんぼりがわ)」です(最後は分岐して鬼怒川と小貝川に注ぎます)。その川幅(1間〔けん〕は約1.8m)がそのまま名称になっています(現在は拡幅により下流付近は“十五間川”です)。上流から下流へとなだらかに傾斜しているうえその「谷底」にあるのですから、その最下流近くの大和橋近辺が常総市の鬼怒川東岸のもっとも標高の低い地点なのです。国土交通省が日本中から集めた内水排水ポンプ車が小貝川への排水作業をする様子が、テレビで映されていた地点です。

  下は、国土地理院の地図で、左上から順に、9月10日18:00、9月11日10:00、9月14日9:30、9月16日10:20の浸水地域です。(最後の地図にこのページで紹介する3地点の地名を書き加えてあります。)

 

 


 

 

 全景写真は省略しますが、盛り土の上の豪壮な農家建築です。その高い地盤と高い床にもかかわらず、壁の電灯のスイッチの高さまで、すなわち床から1.3m、地面からは2.5mほども冠水し、あらゆるものが氾濫水によって壊されていました。畳はもちろん、壁体内の断熱材が泥水づけになって黴が繁茂し、猛烈な臭気を放ったそうです。ひとつの市だけで1万棟近い家屋が浸水したため、大工・工務店・畳屋・内装工事店・電気工事店・設備〔水回り〕工事店等は手一杯となり、呼んでも来てもらえません。やむをえず自分で壁紙と石膏ボードを剥がして黴だらけの断熱材をとりだし、畳を捨て、和室だけでなく洋室の床板もところどころ剥がしました。

 床下の汚泥を浚って乾燥させなければならないのですが、仕事に出る昼間は窓を閉めなければなりません。2か月たっても状況は改善せず、復旧の見通しも立ちません。(一方、玄関ドアや建具が破壊された家では、住める状態でないのに外出もできないのです。)

 たまたま上水道をひいていたのと浴室が使える状態だったので、避難先からなんとか帰宅し納屋の二階で生活できています。近所一帯では飲料水に使っている井戸水が汚染されて使えないのと、たいていの家はユニットバスが壊れてしまったために(床下浸水にとどまっても浴室やトイレが破壊される例が多いようです)、いまだに帰宅できない家がたくさんあります。「避難所」に残る人数を以って解決の早い遅いを測っているのがテレビや新聞の通例ですが、被災者の多くが親類・知人宅やアパートに身を寄せていて、統計上捕捉されていないだけなのです。

 修理のめどもたたないのですが、かりに修理したとして、来年の洪水シーズンがくれば修理した家をふたたび濁流が襲うのではないかと考えると、この際近隣の街のマンションの上階を買って移ってしまおうかという人もいらっしゃるようです。農家であってはそうもいかなかいのですが。

 

 

 

 

同様に深く浸水した平町から沖新田にかけて

 

 大和橋から北上し、平町(へいまち)へと向かいます。沿道の家は、厨房の換気扇フードまで浸水しています。国道354号線(4車線の新道)を越すと、西側に八間堀川の決壊地点がありますが、それは次のスライドで見ることにして、八間堀川を西岸に渡りさらに北上します。とにかく平坦です。道沿いに常総市沖新田(おきしんでん)の農家集落が並んでいます。「地理」の教科書に富山県の例がよく出てきますが、新田開発によってできた線状の集落形態です。ここも1階天井あたりまで浸水したようです。

 倒れたフェンスや稲穂の向きが、氾濫流のやってきた方向とその威力を物語っています。

 国土交通省が管理する(というより管理を怠ってきた)鬼怒川の大氾濫によって、街と農地は甚大な損害を蒙りましたが、遠くに写っているように、同じく国土交通省が現在建設中の首都圏中央連絡自動車道(圏央道)は、なんらの損害も受けてもいないようです。

 

 

 

破堤した八間堀川

 

 大和橋から北上する時に通った常総市平町(へいまち)の大生(おおの)小学校と大生公民館、その西側正面に見える八間堀川の決壊した堤防です。決壊がいつ、どのようなメカニズムで起きたのかは、今のところまったくわかって(発表されて)いません(「八間堀川問題 5」で仮説を提起しました)。

 この付近の浸水は、この八間堀川の決壊によるものというより、全体としては、若宮戸の2か所と三坂町から氾濫し、自然堤防の大部分をも含めて谷底平野全体にひろがって流下してきた氾濫水によるものだと思われます。今のところ何もわかりません。

 地図と朝日航洋の貴重な航空写真は、前述の国立研究開発法人防災科学技術研究所のウェブサイトから引用させていただきました〔その後内容変更〕。

 

 *当初、決壊(破堤)箇所に排水門があったとしましたが誤りです。

 


 

 

 

蛇足 superfluous

 

 被災地の内と外は、「天国と地獄」のごとく対照的です。鬼怒川水害の被災地の一歩外では、何も変わらぬ日常生活が営まれています。水没し、やっと水が引いたた我が家に1週間ぶりに帰った被災者が小貝川の堤防にあがると、対岸で釣りに興ずる人の姿が見えたそうです。

 ただし、その「天国と地獄」はユダヤ教およびそれを継承したキリスト教・イスラムにおける天国と地獄ではなく、ヒンドゥー教およびそれを継承した仏教における「天国」と「地獄」です。ユダヤ教などの一神教的「天国と地獄」は、現世 present world の消滅後に出現する来世 world to come であり、そこには「時間」(歴史)はなく、したがって永遠 eternal です。「最後の審判」 last judgement により振り分けられた人間はそのいずれかに永住することになるので、相互の人事交流はありません。すでに消滅した現世へ帰還することも当然ありえません。(ただし、中世ヨーロッパのキリスト教にあっては、本質的改変〔壊変?〕をとげて、最後の審判以前にすでに天国 paradiso と地獄 inferno、 ついでに煉獄 purgatorio まで設置されていて、はやくも在籍者で満室状態となっているばかりか、大先輩〔ウェルギリウスと通りすがりに脳裏に焼きついた町内の娘〔ベアトリーチェの案内でそれらを旅行して回ったうえで、後世、空前の傑作として自国内ばかりか各国語に翻訳されて読まれることになる旅行記『神曲 Divina Commedia 〔神聖喜劇〕』をしたためる者〔ダンテ・アリギエリ〕まで出現します。)

 ヒンドゥー的「天国」と「地獄」は、すでに並存する6つの世界(天国、人間、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄)のなかのひとつずつです。論功行賞(今流にいうと、「人事評価制度」)に基づく6部署間の人事交流がさかんにおこなわれます。基本的に「上がり」はなく(ごくごくまれに実行するのが解脱〔げだつ〕)、いつまでも循環的に経巡ることになります。ユダヤ教における現世の「時間」は一方向へ不可逆的に流れるのみで、しかも短い(天地〔現世〕創造は紀元前4000年で、最後の審判は間もなく開廷する)のですが、ヒンドゥー的「時間」は、円環をなしてたえず出発点へと環帰しては無限に回転し続けます(円周は有限だが同じところを回転し続けるので「無限」)。天国にいても次は地獄かという心配から解放されることはなく、いつまでたっても安心できません。地獄にいれば次は天国ときまっているわけではなく、来年また洪水に襲われればふたたびの地獄なのです。

 

 鬼怒川水害を目の当たりにした私たちは、この「地獄」の様相に驚愕するばかりです。そして同時に、私たちのいる「天国」のなんとも儚いことに思い至るのです。

 10年前に結城郡石下(いしげ)町と水海道(みつかいどう)市の合併によってできた常総市は、人口減少と高齢化に呻吟する限界集落でもなく、さびれはてた農山漁村だったのでもありません。南隣のつくばみらい市には常磐高速自動車道の谷和原(やわら)インターチェンジがあります。茨城県内で続々消滅したのとは対照的に鉄道が存続していて、水海道駅から常磐(じょうばん)線取手(とりで)駅までは、非電化とはいえ複線区間になっています。鬼怒川と小貝川にはさまれた広大な水田地帯を貫通する国道294号線バイパスはまもなく4車線化工事が完了しますし、これも間もなく開通する首都圏中央自動車のインターチェンジができるので、周辺は茨城県南部の物流拠点としての開発も計画されています。

 道路ばかり見ていてもしかたありません。農家の一般的な住宅用敷地面積はおおむね500坪程度で、カリフォルニアの地方都市の相対的にゆたかな住宅と同程度の広さです(耕地は別です)。農家以外の住宅も、比較的広い敷地に余裕のある間取りで建てられていて、首都圏近郊の人口密集地のなんとも味気ない街並とはおおいに異なります(グーグルマップのストリートビューで一目瞭然です)。相対的には豊かな農村と地方都市だったのです。それが、一瞬にして40㎢が水没して、何か月たっても復旧の目処すらたたないのです。

 この地獄の様相こそ、今回は水害を免れたわたしたちの、明日の姿なのです。