鈴木宗男と杉原千畝
刑事訴訟の被告人として起訴され分限休職中の外務省職員佐藤優が執筆した『国家の罠』(2005年、新潮社)に、政治家鈴木宗男は、杉原千畝の名誉回復や顕彰に尽力したことで「イスラエル、ユダヤ人社会における高い評価」をかちとった、との記述がある(284–86頁)。のちに佐藤優はこの件について雑誌記事で詳述している(「インテリジェンス交渉術 最終回 鈴木宗男氏、その失敗の本質」、『文藝春秋』2008年12月号)。
佐藤優の言うところによれば、1991(平成3)年10月3日、外務省は杉原千畝の未亡人杉原幸子と長男杉原弘樹を外務省飯倉公館に招いた。前年に出版された杉原幸子の『六千人の命のビザ』(朝日ソノラマ)を読んだ外務政務次官鈴木宗男による杉原の「名誉回復」の第一歩だった。この件は、杉原千畝が帰国直後の1947(昭和22)年6月に外務省を免官されて以来の外務省と杉原の遺族の「和解」として報道された。
その2日後の10月5日、鈴木宗男は、ソ連から独立したばかりのバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)との外交関係樹立のため、政府代表として現地訪問に出発した。随行員として通訳をつとめたのが佐藤優である。これが鈴木と佐藤の親密な関係のはじまりであった。佐藤の説明によると、佐藤は外務省からの事務連絡電により、鈴木宗男がリトアニア側との会談の際に、杉原千畝の件とくにその退職理由について触れることのないようにせよとの指示を受けていた。また、佐藤自身も、国家元首のリトアニア最高会議議長ランズベルギスは反ユダヤ的傾向をもっているから、ユダヤ人を助けた杉原千畝の件に言及することは適当でない、と鈴木に「進言」したという。
それに対して鈴木宗男は、「ランズベルギスさんは、ソ連の共産主義体制と文字通り命を賭けて戦って、リトアニアの独立を獲得したひとだ。ほんものの政治家だ。それならば外交官生命を賭けてビザを発給した杉原さんの気持ちも理解できるよ」として、翌日の会談で杉原の件を持ち出したという。ランズベルギスはその場で、首都ビリニュス市の通りのひとつを「杉原通り」と命名することを約束したうえ、カウナス市にある1940(昭和15)年当時の日本領事館の建物への案内を手配したという。
佐藤はこのやりとりについて、「一流の政治家が大所高所の原理で動く姿を目の当たりにし、少し興奮した」(『国家の罠』、286頁)と記している。しかし、鈴木の理屈には無理があってまったく説得力がない。それを「大所高所」だと持ち上げて感動してみせる佐藤の説明は何やらうさん臭い。本音はこうである。
「〔鈴木は〕外務官僚と多少衝突しても、杉原氏の名誉回復のために汗をかくことが、鈴木氏がイスラエルとユダヤ・ロビーの関係を強化する上で有益であるという判断をしたのだ。事実、鈴木宗男の名前は、イスラエルとユダヤ・ロビーにおいて『杉原千畝氏の名誉回復をした人物』として認知され」た。(前掲『文藝春秋』、345頁。)
鈴木宗男は、杉原千畝問題は対イスラエル接近のために利用価値があると判断し、まず遺族を外務省に呼び出して「和解」を演出して味方につけたうえで、ビザ発給の地であるリトアニアに赴いた。かの地でいささか強引に杉原千畝を話題にとりあげて、杉原千畝の名誉回復に尽力した政治家、という実績をつくりあげ、イスラエル政府とユダヤ人有力者らにアピールした、ということである。杉原の遺族同様、リトアニアの国家元首もまんまと利用されたことになる。
鈴木が杉原幸子の『六千人の命のビザ』(1990年)を読んで感動し、なんとかその名誉を回復したいと思ったというのもあやしい。フジテレビが「運命を分けた1枚のビザ」を放映したのが1983(昭和58)年、篠輝久の『約束の国への長い旅』の出版が1988(昭和63)年で、未亡人の著書以前にも杉原千畝の件はある程度は知られていた。鈴木は、リトアニア訪問が決定した時点で、1940年のリトアニアでの杉原千畝の一件が使えることに思い至り、大急ぎで出発の2日前に遺族を外務省に招待して「和解」を演出したのだ。
イスラエルとインテリジェンス
その8年後の2000(平成12)年8月、鈴木宗男は衆議院外務委員会で質問をおこなった。ちょうど杉原千畝生誕百年にあたるので、鈴木自身が政府代表として携わったリトアニアとの国交樹立の日である10月10日までに「何がしかの位置づけをした方がいい」と持ちかけた。
これに対して、外務大臣河野洋平は、「たとえば顕彰のためのプレートを掲げるとか、何か少なくとも後に残るものをいたしたい」と即座に答弁した(http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000514920000804001.htm?OpenDocument リンク切れ)。
そして質問で鈴木が指定したとおりの10月10日、外務省外交史料館で、杉原幸子、鈴木宗男、リトアニアとイスラエルの臨時代理大使らが臨席して杉原千畝を顕彰するプレートの除幕式がおこなわれ、外務大臣河野洋平が顕彰演説をおこなった(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/12/ekn_1010.html)。
その後、自民党衆議院議員鈴木宗男は、2002(平成14)年6月に斡旋収賄罪で逮捕・収監されることになるが、保釈後の2005(平成17)年に新党大地から立候補してふたたび衆議院議員となった。鈴木は、2006(平成18)年に、政府に「質問主意書」を提出したが、それに対する「政府回答」によると国家元首ランズベルギスとの会談の記録文書には、杉原千畝をめぐるやりとりの記載はなく、カウナス市長との会談記録に杉原千畝への言及があるのみだという(http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164212.htm リンク切れ)。「大所高所」だとか「一流の政治家」などと言っているが実情は不明である。
佐藤優は、鈴木宗男と自分の逮捕は、斡旋収賄だとか背任だとかの名目をつけてはいるが、外交方針上の対立を背景とする不当な「国策捜査」だと批判している。そして、自分は「インテリジェンス」すなわち高度の国家機密に関係する職務に携わったのだと自慢げに語っている。佐藤は、イスラエルとユダヤ・ロビーにおける鈴木の好評が「後に筆者〔佐藤〕がインテリジェンス面でイスラエルとの関係を強化する過程で役に立った」(『文藝春秋』、同)と、外交官気取りである。ところが実際には、取り調べにあたった担当検事に「外に出さない」ことになっている「特殊情報」まで喋ってしまったようである(『国家の罠』、229-31頁)。「インテリジェンス」に携わると称する者が、検事相手に「国家機密」を解説したうえ、保釈中にそれをネタにして文筆業に精励し得意になっている。このような佐藤優の話をどこまで真に受けるべきなのだろうか?
いずれにせよ鈴木宗男は、杉原復権の手柄話を自作自演し、イスラエルとユダヤ・ロビーへの接近に利用したのである。杉原千畝を顕彰するふりをして、鈴木宗男は自分で自分を顕彰したのだ。