18歳選挙権をめぐる旧来の法解釈と新たな人権侵害

総論(要約版)

 

「設置者の学校管理権限」「政治教育」「全体の奉仕者」概念の再検討

 

 選挙権年齢の18歳以上への引き下げに際して、文部科学省は都道府県教育委員会などに対する通知文書で、高等学校等の生徒の思想・表現の自由などの人権を制限する方針を示した(「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について(通知)」、2015〔平成27〕年10月29日 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/1363082.htm)。この文書は、学校内における自由だけでなく、学校外での自由についても干渉し、制限・禁止すべきであるとしている。

 まず、文部科学省の主張の背後にある旧弊な法理論の検討からはじめる。そして、生徒の人権侵害の前提として、教育基本法にいう「政治教育」に関する誤解と、「公務員」に関する誤った憲法解釈のうえにたった公立学校教員の基本的人権侵害があることを指摘する。

 

 

 

1 学校の「構内」と「構外」における人権侵害

 

 

❖ なぜ「校内」ではなく「構内」なのか?

 

 文部科学省が高等学校等の生徒の人権制限方針を示した「通知」、およびその解説(「Q & A」 http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1366767.htm)においては、「校内」「校外」ではなく、あえて「構内」「構外」の語が用いられていることが目をひく。これは、国公立学校・国公立病院・刑務所などの利用者(在学者・患者・収監者)は、国家との特別な権力関係 besondere Gewaltverhältnis のもとに置かれているのであって、そこでは国家と国民との間の一般的な権力関係のもとであれば許されている自由(人権)の行使は認められず、自由(人権)を制限される、とする考え方に特徴的なものである。

 19世紀ドイツ法学に発する「特別権力関係論」という旧態依然たる考え方においては、公(おおやけ)の営造物 Anschtalt は、一定の土地の上の建造物という領域的・物体的なものとして観念される。たとえば学校という場合、学校用地と建造物などの施設が思い浮かべられて、そこで働く教職員はもちろん、在学する児童・生徒・学生という人的側面は視野に入らないのである(「教会 church 」というときに、本来意味する信徒の集団・組織を度外視して、その集団が活動の拠点とする建造物すなわち「聖堂 cathedral 」をもっぱら思い浮かべるようなものである。信仰に興味のない観察者にとって、「教会」は目に見える聖堂以外ではありえないように、個人の人権を認めない特別権力関係論においては、人間の組織・共同体は視野にははいらず、ただ一定の領域とそこにある建造物群だけが目に映るのである)

 一定の土地を確保しそこに建造物を建設した国家(中央組織だけでなく、「地方自治体」と呼ばれる地方組織を含む)は、以後その営造物を管理運営するのであるが、その管理権限はその営造物に対して独占的に行使されるだけでなく、その営造物の領域すなわち「構内」においては、その利用者(児童・生徒・学生、患者、収監者)に対する支配権としても行使される、というのである。

 

❖ 「学校の設置者」が持っている全面的な管理運営権限という特異な主張

 

 文科省の「Q & A」は冒頭で、「学校の構内における生徒の活動について、選挙運動を含め規制できる法的根拠はなんですか」と自問し、学校教育法第5条の「学校の設置者は、その設置する学校を管理し、法令に特別の定のある場合を除いては、その学校の経費を負担する。」という条句をあげたうえで、「学校の設置者は、学校の物的管理(校舎をはじめとして施設の管理を含む。)や運営管理(児童生徒の管理を含む。)などに必要な行為をなし得るものと解されます。」と自答する。施設設備の維持管理やせいぜい職員の雇用に関する事務を義務づけられているにすぎない規定を無限に拡大解釈し、憲法によっても保証されている児童生徒の自由(人権)を規制する権限を付与されているかのごとく誤認しているのである。とりわけ、「学校管理規則等により、その管理について委任を受けた学校長も同様に学校の物的管理や運営管理を行うことができます。」として、校長一人に過大な権限を与えるのである。

 しかし、ここで「法的根拠」とされる学校教育法第137条は、学校の施設を「公共のために、利用させることができる」という積極的な規定であって、その際「学校教育上支障のない限り」という当然の前提を付しているだけであるのに、これを正反対の消極的な趣旨に曲解し、学校教育上の「支障」があると強弁して、その利用を規制できるとしている。すなわち、「通知」は次の通り述べる(第3、「用語の定義について」2.)。

 

放課後や休日等であっても、学校の構内での選挙運動や政治的活動については、学校施設の物的管理の上での支障、他の生徒の日常の学習活動等への支障、その他学校の政治的中立性の確保等の観点から教育を円滑に実施する上での支障が生じないよう、高等学校等は、これを制限又は禁止することが必要であること。

 

 「支障」が生じないように、政治的活動と「学校教育」のいずれかまたは双方について日時や内容上の調整をおこなって許可するという発想は微塵もなく、政治的活動が「支障」でしかありえないと決めてかかり、あらかじめ考慮の余地なく全面的に不許可とするのである。

 以下、「Q & A」は、さまざまの「支障」を捻り出してみせる。

 

【学校施設の物的管理の上での支障があると認められる場合】

◇ 部活動による利用があらかじめ決まっている日に、生徒が体育館を用いて集会を開催しようとするなど、本来の教育活動による施設の利用の妨げとなる場合

◇ 施設を管理する人員が確保できない日に、生徒が体育館を用いて集会を開催しようとするなど、施設の管理者として、責任をもって施設と利用者の安全を確保することができない場合

 

 配慮や調整などいっさいおこなわず、教育委員会ないし学校の「人員確保」上の義務をいっさい果たさないことを前提にして、「部活動による利用があらかじめ決まっている日」や「施設を管理する人員が確保できない日」の利用という、相当おかしな状況を例示するのである。このような不親切ぶりでは、「社会教育」のための貸与の余地すらなくなるし、たとえば任意団体の「PTA」の活動や集会のための施設利用も「支障」を生ずるものとして全部不許可とすべきことになるだろう。さらに非現実的で極端な「支障」が案出される。

 

【他の生徒の日常の学習活動等への支障があると認められる場合】

◇ 生徒が放課後に校庭でマイクとスピーカーを用いて演説会を行おうとしたところ、自習している他の生徒を妨げることになる場合

 

 集会を開くという場合、まずは空いている教室などでおこなう例が考えられるが、唐突に屋外での大規模集会をあげ、騒音が「自習」の妨げとなるなどと、無理に底意地悪く「支障」をつくりだして勝手に迷惑がってみせている。あえて「学校教育」だとして持ち出しているが、そもそも「自習」は言うに及ばず、「部活動」自体が、「学校教育」とは言えない。「部活動」は、学習指導要領上の正規の教育課程ではなく、「特別活動」にはあたらない。指導要録作成に際しては、校外での活動とおなじく「その他」の欄に記入するほかない。あえていえば、「部活動」それ自体が、「学校教育」の「支障」とならない範囲でおこなわれるべきものなのである。

 「マイクとスピーカー」の他、楽器や打球音、掛け声、足音などにより、それこそ放課後に「自習」の妨げとなるような音を発する活動は、様々の「部活動」によって、毎日、放課後遅くまで、場合によっては授業時間中にもおこなわれている実態がある。「Q & A」は、虎ノ門の庁舎にいる文部官僚が、それらの事実についてまったく考えも及ばないなかで書いたものである。文部科学省は、「部活動」を持ち出して政治的活動が「支障」であるとする独断的主張の根拠にしようというのだが、むしろ休日もなしに長時間にわたって実施される「部活動」それ自体の問題性を浮き彫りにする結果となった。

 「学校教育上の支障」となるかもしれない口実がいかにしてもみあたらない場合については言うことがなくなり、教育委員会に責任転嫁する。

 

【その他教育を円滑に実施する上での支障があると認められる場合】

◇ その他、放課後、休日の空き教室等の使用を許可するか検討するに当たっては、学校施設の目的外使用として適切かを学校管理規則等に沿って御判断いただくことになります。

 

 ところが「Q & A」は最終的に、「構内」での政治的活動の全面的禁止も妥当だと断言してしまう(Q5への回答)。

 

学校教育法は、設置者管理主義をとっており、学校の設置者は、学校の物的管理(校舎をはじめとした施設の管理を含む。)や運営管理(児童生徒の管理を含む。)などに必要な行為をなし得るものと解されます。このことや、学校の状況等を踏まえ、学校教育の目的の達成の観点から「構内では禁止する」と校則等で定め、生徒を指導することは不当なものではないと考えられます。

 

 学校教育法によって課せられた「物的管理」の義務から、「児童生徒の管理」権限をかってに演繹する文部科学省の「特別権力関係論」は、学校教育の実情に疎いために規制の根拠として的外れな事例を持ち出して、論理破綻を呈してしまった。

 

❖ 学校の設置者である都道府県と都道府県が設置する学校との混同、学校と校長との混同

 

 上の「通知」や「Q & A」においては、設置者である都道府県が持つとされる「特別」な権力を、いつのまにか学校という機関の一職員にすぎない校長が「委任」されて行使することになる。

 「特別権力関係論」にあっては、営造物利用者に対する「特別」な権力を行使する主体は、それら営造物を設置し管理運営する法人とされるのであるが、文科省官僚の生半可な知識にあっては都道府県立学校の設置者である法人としての都道府県と、その都道府県によって設置された機関である学校とが混同されるだけでなく、さらに法人とそれが設置した機関である学校に置かれた機関に過ぎない校長という職員とが混同されるのである。「校長権限の明確化」という近年の教育行政当局による無理な掛け声の背景には、無知にもとづく混乱した「特別権力関係論」があったのである。

 組織と職員の区別すら曖昧な状態に、さらに職員による公的な職務上の行為とその職員の私的な行為とが峻別されず混同される風潮があいまって、しばしば校長である者らが、憲法や法律上の権限についての弁えも欠いたまま、私的な思い込みによってさまざまの法令違反行為や、「パワー・ハラスメント」といわれる脅迫的言動に及ぶなどの問題をおこしている。これがさらに「政治」的問題にも波及して、校長である者のたんなる私的なおもいつきにもとづく行為が、学校として行う教育活動とみなされるようなことがあると、そのもたらす結果はきわめて重大である。

 

❖ 学校の「構外」での活動への干渉

 

 「特別権力関係」は、営造物の「構内」に限定されるはずなのだが、文科省の俗流特別権力関係論は権力の及ばないはずの「構外」へも滲出していくことになる。その際の口実として、あらかじめ政治的活動それ自体が「違法」、「暴力的」、「違法または暴力的活動等になるおそれが高いもの」、さらには「学業や生活などに支障がある」とか、「他の生徒の学業や生活などに支障がある」ものである例を創作して一覧列挙し、それらについて「教育上の観点から必要な指導が行えるよう、具体的な事実の把握が必要になる場合がある」のだから、学校として生徒の「構外」での動向を探索することを奨励し、最終的には「高等学校の教育目的の達成等の観点から必要かつ合理的な範囲内で制約を受けるものと解されます」と断定するにいたるのである。

 2015年9月の国会議事堂前の「安保法案」反対集会の際には、公道を封鎖して自由な交通を遮断して、表現の自由、集会の自由などの国民の基本的人権を蹂躙した警察の違法で暴力的な過剰警備は、ほとんど問題にされなかった。その一方で、集会参加者のなかから「公務執行妨害」による逮捕者が出ている。実態と法的対処が逆転していて、国の違法行為ではなく、数十万人が参加して平穏に開催された集会が「違法」なもの、「暴力的なもの」と断定されることもありうるのである。

 しかも、これらの事例については、いずれも「違法なものと認められる場合」、「違法または暴力的な政治活動等になるおそれが高いものと認められる場合」、「他の生徒の学業や生活などに支障があると認められる場合」というように、客観的事実の摘示すら必要とはされず、「おそれが高いと認められる」程度の、曖昧な主観的判断で足りるとされている。

 このように、「通知」や「Q & A」は、「構内」への限定という最後の一線すら越えて、学校による憲法違反の人権侵害行為が「構外」においても無限定に拡散する内容となっている。今後、これら文書の記述によって鼓舞された校長が、いささかの疑念もいだかずに生徒の自由(人権)を蹂躙する行為に及ぶことが懸念される。

 

 

 

2 教育基本法の「政治教育」を誤解

 

 

❖ 学校としての教育活動と生徒の活動を混同

 

 「通知」と「Q & A」が、生徒の政治的活動への干渉を正当化するためにもちだすのが教育基本法第14条第2項の規定である。第1項も含めて条文を示す。なおこの条文は、1947(昭和22)年以来のものであり(当時は第8条)、2006(平成18)年の新法への切り替えにあたっても変更されていない。

 

(政治教育)

第十四条  良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。

 2  法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

 

 「通知」は、この教育基本法第14条第2項について次のようにいう。

 

教科・科目等の授業のみならず、生徒会活動、部活動等の授業以外の教育活動も学校の教育活動の一環であり、生徒がその本来の目的を逸脱し、教育活動の場を利用して選挙運動や政治的活動を行うことについて、教育基本法第14条第2項に基づき政治的中立性が確保されるよう、高等学校等は、これを禁止することが必要であること。

 

 教育活動の場を利用して選挙運動や政治的活動を行う」とは具体的にどういうことか、わざと曖昧にしているが、生徒が学校の「構内」でおこなう行為ということのようである。しかし、教育基本法第14条第2項は、「学校は〔……〕してはならない」というものであり、学校という機関がみずからの行為としておこなってはならないことを規定しているのである。この条項は生徒の行為を禁止する根拠とはなりえない。「その本来の目的を逸脱し」というのも、誰(生徒?)のどういう目的かも不明で、論ずる価値もないのだが、特別権力関係論的発想によって生徒の個人的な活動を、学校の「構内」だからと無理やり学校と関係づけたうえでそれを違法とするのは、法解釈として成り立たない。

 この教育基本法第14条第2項は、教員が、学校の教育活動としてではなく、職務とは無関係におこなうまったく私的な行為について抑圧制限する際の根拠としてしばしば持ち出されてきたが(「Q & A」のQ19でも、学校としておこなう教育活動ではなく、教員が私的行為としておこなうことの「違法性」の根拠とされている)、今回とうとう生徒の自由(人権)剥奪の根拠法として提出されるにいたった。

 

❖ 投票行動に矮小化される「政治」と「政治教育」

 

 教育基本法第14条の問題は、第2項の曲解にとどまらない。第14条の見出しである「政治教育」や、第1項の「政治的教養」について、より本質的な印象操作がおこなわれている。

 選挙権年齢の引き下げにより、高校3年生の一部が対象となったことで(ただし以前から、定時制課程の生徒や「過年度卒」の生徒がいた)、文科省が「通知」を出すなどさまざまの動きがでてきたのであるが、そのひとつが文科省と総務省による副教材「私たちが拓く日本の未来」の作成である(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/shukensha/1362349.htm)。「副教材」作成の趣旨は次のとおりである。

 

平成27年6月に、選挙権年齢を満18歳以上に引き下げる公職選挙法改正法が成立し、新たに有権者となる若い人たちの政治や選挙への関心を高め、政治的教養を育む教育の必要性はさらに高まっています。このため、文部科学省では、総務省と連携し、政治や選挙等に関する高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来 有権者として求められる力を身に付けるために」とその活用のための教師用指導資料を作成しました。

 

 そして、冒頭で「政治」に関する様々の問題の存在を指摘する。

 

「政治」と言われて、何を考えますか? あなたにとって、「政治」はどのようなものですか? 学校でどのような教育を行うかといった皆さんの身の回りの教育に関することをはじめ、経済、農林水産、国土交通、雇用・労働、福祉、税、外交や防衛など、私たちの周りにはたくさんの国や地域の「政治」に関わることがあります。 

 ところが「政治的中立」の自縄自縛もあってか、本文の記述は退屈を極め、誰が見てもおよそ興味を抱くようなものではない。「ディベート」の項目で、「サマータイムの是非」について当たり障りなく論じて見せるのを唯一の例外として、具体的な「政治的」問題は一切言及されることがない。「政治的中立」を気にして直接言及しないというなら、せめて原子力発電、集団的自衛権、沖縄の基地問題、労働法制、TPPなどについて考えるうえで役立つような議論の奥行きがあってしかるべきだが、期待はずれである。

 「副教材」は、「実践編」で、「ディベート」「模擬請願」「模擬議会」を扱う以外は、もっぱら選挙権行使について述べるのみである。これは文科省の「通知」や「Q & A」はもちろん、さまざまのマスコミ報道や出版などでも同様である。選挙権年齢の引き下げが今回の一連の動きの動機なのだから、一見当然のようにも思えるが、文科省をはじめ報道や出版関係者の認識構造は、最初から「政治」をすべて投票行動の範囲内に囲い込んでいるのである。

 選挙は、「政治」におけるごく一部の事象に過ぎない。国民の「政治」へのかかわりが、選挙の際の投票行動だけに制限されることは、いかにしてもありえない。「経済、農林水産、国土交通、雇用・労働、福祉、税、外交や防衛」について、選挙という場面でだけしかかわれないとしたら、国民は事実上「政治」から隔絶し、すべてを委任してしまっていることになる。「副読本」は、選挙権の行使すなわち「投票」と、せいぜいそれに関連する「選挙運動」について述べるのみであり、選挙への立候補の手続きについての記述も、主体的なものとしてではなく選挙運動についての説明上触れられる他人の行為としてのものでしかない。

 公務員はもちろん多くの会社員が、法律(国家公務員法、地方公務員法)や会社の就業規則によって選挙への立候補を禁じられていること、すなわち被選挙権を剥奪されていることについての言及もない(異常に高額な供託金の制度については、「副読本」に小さく記載がある)。被選挙権を剥奪されている状態での「選挙権」は、最初から本質的制限のもとに置かれているのである(しかもその「選挙権」行使は、異常に制限的な公職選挙法の規定により、ごく限られた文書の配布と宣伝カーの運行などをのぞき、選挙運動はほぼ完全に禁止されている)。

 公務員は国家公務員法と地方公務員法によって、学校教員は学校教育法と公職選挙法によって厳重な制限が課せられ、事実上、投票用紙への記入と投票箱への投函が許されているだけなのである。

 

❖ 矮小化される「政治」

 

 選挙によって議員を選んでしまった瞬間に国民の「政治」へのかかわりは終わる、というのが「副読本」の見解のようである(「解説編、政治の仕組み、第3章)。

 

議会制民主主義をとっている我が国では、選挙によって国民や住民の代表者を選出し、政治の具体化をその代表者に委ねています。この意味では、議員は国民や住民を「代表」 するものです

 これは、憲法における「国民主権」規定の一面的で誤った解釈である。いったん「委ねて」しまえば、あとは「代表」に全部おまかせといわんばかりで、「実践編」に請願についてのすこし有用な説明があるのを除いて、国民の「政治」に関する活動はその存在すら触れられることがない。文科省だけでなく、報道や出版においても、政党活動や選挙運動だけが「政治」活動であるかのような論調ばかりがめだっていた。

 「政治」に関する国民の活動はもっと多様かつ全面的で、奥深い。議員や首長に対するさまざまな形での要望活動(「ロビー活動」)、出版・報道機関によるもののほかインターネットによる政治的主張の発表、政治集会・示威行動など、「政治」に関連する活動は多方面にわたる。「政治」との関連性を有する活動は、選挙で選ばれる議会や首長にだけ向けられるものでもない。立法機関以外の国家機関(地方機関を含む)への働きかけも、日常生活や職業上の具体的問題をめぐって、たとえば監督官庁に対する要求・請願・面接・交渉という形でおこなわれる。さらには、行政訴訟や民事訴訟の提起にいたることもある。

 「18歳選挙権」をめぐる近年の動きをみても、文科省などの行政機関や報道・出版によって、これらが「政治教育」の具体的内容として言及されることはほとんどなく、在り来たりの「模擬投票」やせいぜい「模擬選挙」について月並みな紹介ばかりおこなわれていた。

 

❖ 一面的な「政党」観

 

 「政治的活動」を投票に限定する見方のもとでは、「政党」の持つ意味はきわめて貧弱なものとなる。「副読本」の記述は次のとおりである(22頁)。

 

政党とは、一般的には、政治的な主義や主張が近い人たちが集まり、政治活動を行う集団のことです。政党は、自分たちの政策を実現するために、選挙を通して政権の獲得を目指します。また、政党は、国民の様々な意見や利益を政治に反映させる、いわば国民と議会を結ぶパイプ役として議会制民主主義において大きな役割を果たしています。 

 「政党」は選挙においてしか自らの存在意義を示せない中空の「パイプ」に過ぎないようだ。そもそも政党の目的は「政権の獲得」でしかない。なんらかの政治的理想のために「政権の獲得」をめざす、そのために「選挙」にとりくむというのではなく、「政権の獲得」が自己目的化している。「選挙」に取り組むという観点でだけ「政党」を見ていて、「選挙」に関連しない場面での「政党」の存在意義はまったく考えられていない。文科省と総務省の官僚はそのようものとしてしか政党をとらえていないのである。このような皮相な見解にもとづく「副読本」が、政治についての関心を呼び起こすようなものでないのは当然である。

 

❖ 政党法と政治資金規正法における「政党」観

 

 政治的理想の実現のために活動するのではなく、政権獲得をめざして議席をふやすことにしか関心のない団体としての「政党」は、政治資金規正法と政党助成法が予定するものである。次は、政治資金規正法における政党の定義である。政党助成法もほぼ同文である(第2条)。

 

政治資金規正法

(定義等)

第三条  この法律において「政治団体」とは、次に掲げる団体をいう。

 政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対することを本来の目的とする団体

 特定の公職の候補者を推薦し、支持し、又はこれに反対することを本来の目的とする団体

 前二号に掲げるもののほか、次に掲げる活動をその主たる活動として組織的かつ継続的に行う団体

 政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対すること。

 特定の公職の候補者を推薦し、支持し、又はこれに反対すること。

 この法律において「政党」とは、政治団体のうち次の各号のいずれかに該当するものをいう。

 当該政治団体に所属する衆議院議員又は参議院議員を五人以上有するもの

 直近において行われた衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙若しくは比例代表選出議員の選挙又は直近において行われた参議院議員の通常選挙若しくは当該参議院議員の通常選挙の直近において行われた参議院議員の通常選挙における比例代表選出議員の選挙若しくは選挙区選出議員の選挙における当該政治団体の得票総数が当該選挙における有効投票の総数の百分の二以上であるもの

 

 政治資金規正法および政党助成法にいう「政党」は、条文上は「政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対すること」を要件とするようにみえるが、空疎な抽象的規定にすぎず、たとえば政党助成金の交付の条件としてその内実が問われるわけではない。とりわけ分裂や合同の際の政党交付金の取り合いをみても、「政治上の主義」などそっちのけで、それ以外の要素(主導権争いや金銭争奪)が主たる目的となっているのが通例である。異常に制限的な選挙法制が国民の選挙権行使を抑制したうえで、政党法制が政党の政治的空洞化と堕落を動機づけているのである。

 このように、「副読本」の説く「政党」観は、政党をめぐる現実に屈服している。

 

 

 

 

 誤った「全体の奉仕者」論

 

 

❖ 地方公務員の公立学校教員の政治的自由を国家公務員法で制限

 

 文科省の「通知」や「Q & A」に鼓舞され、憲法違反の「特別権力」を与えられたと夢想する校長が、生徒の政治的活動の制限に邁進しようとしても、しかし、校長ひとりではいかんともしがたい。学校の教員の動員が不可欠である。生徒の自由(人権)を剥奪し政治的活動を制限するような学校教育活動に教員を動員するためには、あらかじめ教員の自由(人権)を剥奪しその政治的活動を制限しておく必要がある。

 次は、選挙のつど、文部事務次官から各都道府県教委等に発せられる通達の一部である。

 

 公務員は、全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではなく、公共の利益のために勤務すべき職責があり、その政治的中立性を確保するとともに、行政の公正な運営の確保を図る必要があることは言うまでもありません。

 特に、教育公務員については、教育基本法(平成18年法律第120号)等における教育の政治的中立性の原則に基づき、特定の政党の支持又は反対のために政治的活動をすることは禁止されています。さらに、教育公務員の職務と責任の特殊性により、教育公務員特例法(昭和24年法律第1号)において、公立学校の教育公務員の政治的行為の制限は、国家公務員の例によることとされ、人事院規則で定められた政治的行為が禁止されています。また、公職選挙法(昭和25年法律第100号)においても、選挙運動等について特別の定めがなされているところです。

 

 学校教員の政治的自由の制限は、教育法制(教育基本法など)と選挙法制(公職選挙法)によって、私立学校(独立行政法人や株式会社が設立する学校を含む)の教員にも及ぶが、地方公務員である教員の場合は、これに公務員法制(教育公務員特例法・国家公務員法・人事院規則14−7)による規制が加わる。以下、公務員法制による公立学校教員の政治的自由(人権)の制限・剥奪について検討する。まず、根拠法を見る。

 

教育公務員特例法 第十八条  公立学校の教育公務員の政治的行為の制限については、当分の間、地方公務員法第三十六条 の規定にかかわらず、国家公務員の例による

 2  前項の規定は、政治的行為の制限に違反した者の処罰につき国家公務員法 (昭和二十二年法律第百二十号)第百十条第一項の例による趣旨を含むものと解してはならない。

 

国家公務員法 第百二条  職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。

 2  職員は、公選による公職の候補者となることができない。

 3  職員は、政党その他の政治的団体の役員、政治的顧問、その他これらと同様な役割をもつ構成員となることができない。

 

 教育公務員特例法第18条の「国家公務員の例による」という部分は、国立大学の独立行政法人化以前は、「国立学校の教員の例による」であった。国立大学の独立行政法人化により国家公務員である教員が一斉に非公務員化したために国家公務員法による規制対象から外れ、地方公務員である公立学校教員だけが国家公務員法と「人事院規則14−7」による政治的自由の剥奪の対象であり続ける変則的な状態になっている。地方公務員である公立学校教員の政治的自由の剥奪は、国家公務員の政治的自由の剥奪の動向が直接及ぶしくみになっているのである。

 

❖ 公立学校教員は「全体の奉仕者としての公務員」か?

 

 上に引用した選挙の際の文科事務次官通達では、まず公務員が「全体の奉仕者」であることがその「政治的中立の確保」すなわち政治的自由の制限の根拠とされていた。出典は明記されていないが、文部科学省はこれを読む者は誰もが憲法第15条第2項を想起することを期待しているのである。

 

日本国憲法

第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

 2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない

 3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

 4  すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 

 「全体の奉仕者」であることがその者の「政治的中立」を要請するという論理の妥当性が問われるべきである。まず前提となる「すべて公務員は、全体の奉仕者である」という憲法条文の妥当な解釈について検討する。

 第15条第2項の規定は、大日本帝国憲法体制にあっては天皇の官吏として、国民(臣民)に奉仕するのではなく、主権者としての天皇に奉仕する存在であった「公務員」を、主権者である国民に奉仕する存在に転換したものとして、肯定的に受け取られるのが通例である。そして、それ以上の解釈や検討はほとんどおこなわれない。しかし、公立学校の100万人以上の教員を筆頭とする350万人以上の国家公務員と地方公務員の全部が、ここでいう「全体の奉仕者」としての「公務員」といえるかどうかは改めて検討されるべきである。

 

❖ 「成年者による普通選挙」によって選定される「公務員」

 

 「公務員」の語は、憲法条文では第15条の3回のほか、第16条、第17条、第36条、第99条(天皇・公務員の憲法擁護義務)、第103条(補則)で各1回ずつ現れる(英文では、第36条が public officer である以外すべて public officials )

 国民の基本的人権を列挙する憲法第3章において、「公務員」を選定しあるいは罷免することは国民の権利であると規定しているのであるから、憲法のいう「公務員」とは、基本的には「国務大臣、国会議員、裁判官」のことであると解釈する他ない(これらは、第99条で憲法尊重擁護義務を負うものとされる「公務員」である)。数百万人の公務員(「一般職」の公務員)の全部について、これを「選定」「罷免」する権利が国民にあると解釈するのは相当の無理がある。憲法第15条第1項にいう「公務員」とは、「国務大臣、国会議員、裁判官」に、地方議会の議員および首長(都道府県知事、市町村長)、さらに戦後まもなくであれば、地方自治体の教育委員などを加えたもの、要するに特別職の公務員(の一部)のことであると解釈するのが妥当である。第15条第2項にいう、「全体の奉仕者」としての公務員とは、なによりこれら特別職の「公務員」のことである。憲法第15条が主として公務員法(国家公務員法、地方公務員法)にいう「一般職」の公務員を指している、と解釈するのは失当だと言わざるをえない。

 国家公務員法第2条第4項と第5項は次のとおり規定する。

 

   この法律の規定は、一般職に属するすべての職(以下その職を官職といい、その職を占める者を職員という。)に、これを適用する。人事院は、ある職が、国家公務員の職に属するかどうか及び本条に規定する一般職に属するか特別職に属するかを決定する権限を有する。

   この法律の規定は、この法律の改正法律により、別段の定がなされない限り、特別職に属する職には、これを適用しない

 

 特別職には国家公務員法は適用されない。国家公務員法とは、一般職の国家公務員にだけ適用される法律なのである。

 以上のとおり、国家公務員法は、憲法第15条にいう「公務員 public official 」を「特別職」と称して国家公務員法の適用対象から除外する。要するに、国家公務員法の適用対象となる一般職の国家公務員は、憲法第15条にいう「公務員 public official 」とはまったく別物なのである。とりわけ、わざわざ選挙で選ばれる者を除外するとしている(第3項の第九号)以上は、国家公務員法にいう一般職の公務員は、憲法第15条にいう「公務員」ではないことを、その本質とするというほかない。憲法第15条の「公務員」と公務員法が規定する一般職の「公務員」は、排他的概念であり、決して重なり合うことがない。

 憲法は1946(昭和21)年11月3日に発布され、翌1947(昭和22)年5月3日に施行されているのであるが、その後の1947年10月21日に制定された国家公務員法と、1950(昭和25)年12月13日に制定された地方公務員法は、特別職の公務員(の一部だけ)を「公務員」と呼び、一般職の公務員には別の呼称(たとえば、「公務労働者」、「政府労働者」、「政府機関従業員」・「地方自治体従業員」)をあてるべきであった。

 白馬は馬ならず。同様にして一般職公務員は公務員ならず。ところが公務員法が憲法上の用語と矛盾する用語を用いたために、憲法上の「公務員」を他の場面で法律上端的に「公務員」と呼称するわけにはいかなくなった。そこで案出されたのが「公職」という用語である。公職選挙法は、「衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長の選挙について、適用」(第2条)される法律であるが、第3条で、「公職」をつぎのとおり規定する。

 

この法律において「公職」とは、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長の職をいう。

 

 公職選挙法にいう「公職」とは憲法第15条にいう「公務員」のことである。ただしその全部ではないが、少なくとも立法、行政、および地方自治における枢要部分はそこに含まれる(枢要部分で含まれないのは裁判官である)。憲法で「公務員」とされているものを、そのまま選挙制度をさだめた法律のなかで「公務員」と呼称したりすると、一般職の国家公務員および地方公務員との区別がつかなくなってしまう。そのため憲法上の公務員を、選挙法ではもはや「公務員」と呼称することはできない。公務員法では、特別職と一般職という区分でかろうじて混同を回避したものの、まさか「特別職公務員選挙法」などとするわけにもいかず(?)、選挙法では「公職」という新語をつくってごまかしたのである(それが公務員法に逆反射して「職員は、公選による公職の候補者となることができない」という規定になる)。

 

❖ 「全体の奉仕者」とは「選挙」された公務員のことである

 

 この「公職」すなわち選挙によって選ばれる公務員が「全体の奉仕者」でなければならないとはどういうことか。この規定は、ドイツのいわゆるワイマール憲法(1918年)の第130条を範としている(初宿〔しやけ〕正典訳、『ドイツ憲法集』信山社)

 

第130条 公務員は、全体の奉仕者であって、一党派の奉仕者ではない。〔以下略〕

 

 「成年者による普通選挙」によって選定された公務員は、たとえある政党の党員であり、さらにはその政党の支援(公認、推薦)を受けて当選したとしても、その一政党の利害にのみ忠実に行動することは許されず、国民「全体」の共通の利益、公益のために行動しなければならない、という意味である。「全体の奉仕者」であることが、「政治的行為」の禁止の根拠となるなどということが到底ありえないことはあきらかである。

 あるいはまた、とりわけ国会議員についていうと、国民主権の原則に照らすならば国会議員は一選挙区の代表なのではなく全国民を代表する、という趣旨である。国会議員の各々が代表なのではなく、一人格としての国会(議院)が一人格としての国民 nation の代表 representative なのである(杉原泰雄『国民主権の研究』1971年、岩波書店)。選出選挙区にだけ奉仕する、ましてや、自己に投票した有権者にだけ奉仕することなど到底許されないのである。これを別のことばで表現したものが、「一部の奉仕者」であってはならず、「全体の奉仕者」でなければならない、ということなのである。

 「全体の奉仕者」であるというのは、放っておいても自然にそうなるというものでなく、憲法が「公務員」に対して、規範を与えているのである。放っておけば、一党一派に偏し、特定の地域、特定の集団のみの利益のために行動しかねないので、「全体の奉仕者」でなければならないという厳然たる規範を与え、その遵守を義務づけているのである。

 「全体の奉仕者」でなければならないというのは、よくある憲法解釈のいうように抽象的に心構えを説諭しているだけのものではない。およそあらゆる意味合いにおいて、「公務員」たる者に、厳正なる義務を課するものなのである。自分一個や一族郎党、知己親類郷党だけのために振る舞うなど言語道断であるが、一選挙区や支持者の局限された利害、あるいはある特定の集団・階級・階層、特定の業界・分野だけをもっぱら重視することは許されず、全国民のあらゆる利益の維持増進のために専心努力することを義務づけているのである。たとえ、特定政党の一員あるいはその役員であったとしても、その一党一派の事柄だけを顧慮するようなことは到底許されないというのである。

 とりわけ憲法に対する態度としては、厳格なる憲法尊重擁護義務を負うということである。

 

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 

Article 99. The Emperor or the Regent as well as Ministers of State, members of the Diet, judges, and all other public officials have the obligation to respect and uphold this Constitution.

 

 第99条の規定は、英文では (A) as well as (B) の構文となっていて、(B)公務員と同様に(A)天皇・摂政にも憲法尊重擁護義務を課す文法構造になっているのであるが、それはさておき、公務員については、文言上「その他の公務員 all other public officials 」をも含めてではあるが、なにより「国務大臣 Ministers of State 、国会議員 members of the Diet 、裁判官 judges」という行政・立法・司法の三権の中枢をになう公務員について述べているのである。

 以上のとおり、第15条における「全体の奉仕者」としての公務員とは、「国民固有の権利」にもとづき「選定」「罷免」される、具体的には「成年者による普通選挙」の対象となる者としての「公務員」のことである。したがって、一般職の公務員について、「全体の奉仕者」なのだからその政治的行為が制限されるべきだという論理は前提を欠くのだから、到底成り立たないのである。

 

❖ 「人事院規則14−7」の問題点 ⑴ 勤務時間外まで禁止制限

 

 憲法第15条にいう「全体の奉仕者」にはあたらない一般職の公務員について、「全体の奉仕者」なのだからその政治的行為が制限されるというまったく誤った理由をつけて、その政治的自由をほぼ完全に剥奪するのが、国家公務員法第102条およびそれにもとづく「人事院規則14−7」(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24F04514007.html)である。以下、主な問題点をあげる。

 「人事院規則14−7」が禁止・制限する「政治的行為」の内容について検討する前に、「人事院規則14−7」は、どのような状況での「政治的行為」を禁止・制限するのかを見よう。

 

2  法又は規則によつて禁止又は制限される職員の政治的行為は、すべて、職員が、公然又は内密に、職員以外の者と共同して行う場合においても、禁止又は制限される。

 

 まず、「勤務時間内」に「公然又は内密」におこなう場合である。「勤務時間内」に定められた職務内容以外の行為をおこなうことは、それがいかなるものであれ(「政治的行為」であろうがなかろうが)、すでに国家公務員法第101条の「職務専念義務」に反する。

 

国家公務員法

第百一条  職員は、法律又は命令の定める場合を除いては、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、政府がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない。職員は、法律又は命令の定める場合を除いては、官職を兼ねてはならない。職員は、官職を兼ねる場合においても、それに対して給与を受けてはならない。

   前項の規定は、地震、火災、水害その他重大な災害に際し、当該官庁が職員を本職以外の業務に従事させることを妨げない。

 

 したがって、「勤務時間内」の「政治的行為」については、「人事院規則」であらためて規定する必要性はもともとないのである。

 問題は、「勤務時間外」の「政治的行為」である。民間労働者であれ、公務労働者であれ、勤務時間内は使用者(公務労働者であれば「任命権者」)の支配管理下におかれる。ただしその場合でもその支配管理の内容や支配管理が及ぶ範囲は、労働契約の規定する内容・範囲に限られる。さらに、当然ながら使用者(任命権者)の支配管理といえども、憲法が保障する基本的人権を侵害するような内容に及ぶことは許されない。

 そして、勤務時間外であれば当然使用者の支配は及ばない。この根本原則をおかすことは、民間労働者ならびに地方公務員であれば、労働基準法などの労働法制の根幹を蹂躙するものであって到底ゆるされない。国家公務員にあっては労働基準法は適用されないのであるがそれに対応する法律・規則の根幹を蹂躙するものとなる。しかも、使用者がほかでもない「国」であるだけにこのような行為はいかにしても許されるものではない。

 この点に関して、いわゆる公務員の政治的行為に関する「抽象的危険犯」という論点から検討する。猿払(さるふつ)事件最高裁判決(1974〔昭和49年〕年11月6日)は、「人事院規則14−7」が保護しようとする法益とは、「公務員の政治的中立性を維持することにより、行政の中立性とこれに対する国民の信頼を確保するという国民全体の共同利益」であるとし、堀越事件東京高裁判決(2010〔平成22〕年3月29日)や世田谷事件東京高裁判決(2010〔平成22〕年5月13日)もこれを受け継いでいる。すなわち、「人事院規則14−7」の禁ずる「公務員の政治的行為」は、「行政の中立性とこれに対する国民の信頼」を侵害する危険がある、というのである。現在の支配的な判例は、「公務員の政治的行為」を抽象的危険犯ととらえているのである(井上宜裕「抽象的危険犯論」〔『法律時報増刊 国公法事件上告審と最高裁判所』2011年、有斐閣〕)。

 たとえば政党の機関紙名の記されたチラシを住宅の郵便受けに投函することは、「行政の中立性とこれに対する国民の信頼」を侵害する危険があるとして直ちに犯罪とされ、刑事罰の対象となる。「行政の中立性」に対する「国民の信頼」を侵害するとは具体的にどういうことなのであろうか。あまりにも曖昧であって、実際に国民の誰彼に訊いて回るわけでもないし、どのくらいの人がどう感じたなら「信頼を侵害」したと認定するのかなど、一切示されていないのである。それもそのはずで、この犯罪の構成要件としては、実際に「行政の中立性とこれに対する国民の信頼」を侵害したか否かはいっさい問題にならないのである。チラシを配ることが、それだけで、ただちに、「行政の中立性とこれに対する国民の信頼」を侵害したとして、なんの留保も弁別もなしに犯罪とみなされるのである。「抽象的危険犯」である現住建造物等放火が、保護されるべき「法益」を侵害する危険があるとすることについては疑問の余地はなく曖昧性はないが、たんなるチラシの投函行為を同様に「抽象的危険犯」と見做し、「法益」を侵害する危険があると断定するのは極度に曖昧であり、何らの客観性もない恣意的なものというほかない。「公務員の政治的行為」を処罰する「人事院規則14−7」の規定は罪刑法定主義を根底から覆すものである。具体的には、憲法第31条に違反し、さらには第33条以下にも抵触する。

 以上は、「勤務時間外」に「公然と」おこなう政治的行為であるが、「勤務時間外」に「内密で」おこなう政治的行為はどうか。上述のとおり、政治的行為を「内密で」おこなうとなれば、行政の政治的中立にかんする国民の信頼を侵害する「おそれ」は到底問題にならない。国民が「公務員の政治的行為」を見聞すればこそ、「行政の政治的中立にかんする疑念」が生じるかもしれないなどという杞憂が生じるかもしれないが、「内密」であれば「行政の政治的中立にかんする疑念」など、いかにしても生成する余地はない。「内密」であるものが国民に知られるなどということは定義上ありえず、知られることのないものによって「疑念」が生ずることなどありえないからである。

 

❖ 「人事院規則14−7」の問題点 ⑵ 禁止制限される「政治的行為」

 

 「人事院規則14−7」は、次のような「政治的目的」をもっておこなう「政治的行為」を禁止するという。

 

(政治的目的の定義)

 法及び規則中政治的目的とは、次に掲げるものをいう。政治的目的をもつてなされる行為であつても、第六項に定める政治的行為に含まれない限り、法第百二条第一項の規定に違反するものではない。

 規則一四―五に定める公選による公職の選挙において、特定の候補者を支持し又はこれに反対すること。

 最高裁判所の裁判官の任命に関する国民審査に際し、特定の裁判官を支持し又はこれに反対すること。

 特定の政党その他の政治的団体を支持し又はこれに反対すること。

 特定の内閣を支持し又はこれに反対すること。

 政治の方向に影響を与える意図で特定の政策を主張し又はこれに反対すること。

 国の機関又は公の機関において決定した政策(法令、規則又は条例に包含されたものを含む。)の実施を妨害すること。

 以下略

(政治的行為の定義)

 法第百二条第一項の規定する政治的行為とは、次に掲げるものをいう。

 政治的目的のために職名、職権又はその他の公私の影響力を利用すること。

 政治的目的のために寄附金その他の利益を提供し又は提供せずその他政治的目的をもつなんらかの行為をなし又はなさないことに対する代償又は報復として、任用、職務、給与その他職員の地位に関してなんらかの利益を得若しくは得ようと企て又は得させようとすることあるいは不利益を与え、与えようと企て又は与えようとおびやかすこと。

 政治的目的をもつて、賦課金、寄附金、会費又はその他の金品を求め若しくは受領し又はなんらの方法をもつてするを問わずこれらの行為に関与すること。

 政治的目的をもつて、前号に定める金品を国家公務員に与え又は支払うこと。

 政党その他の政治的団体の結成を企画し、結成に参与し若しくはこれらの行為を援助し又はそれらの団体の役員、政治的顧問その他これらと同様な役割をもつ構成員となること。

 特定の政党その他の政治的団体の構成員となるように又はならないように勧誘運動をすること。

 政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物を発行し、編集し、配布し又はこれらの行為を援助すること。

 政治的目的をもつて、第五項第一号に定める選挙、同項第二号に定める国民審査の投票又は同項第八号に定める解散若しくは解職の投票において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること。

 政治的目的のために署名運動を企画し、主宰し又は指導しその他これに積極的に参与すること。

 政治的目的をもつて、多数の人の行進その他の示威運動を企画し、組織し若しくは指導し又はこれらの行為を援助すること。

十一  集会その他多数の人に接し得る場所で又は拡声器、ラジオその他の手段を利用して、公に政治的目的を有する意見を述べること。

十二  政治的目的を有する文書又は図画を国又は行政執行法人の庁舎(行政執行法人にあつては、事務所。以下同じ。)、施設等に掲示し又は掲示させその他政治的目的のために国又は行政執行法人の庁舎、施設、資材又は資金を利用し又は利用させること。

十三  政治的目的を有する署名又は無署名の文書、図画、音盤又は形象を発行し、回覧に供し、掲示し若しくは配布し又は多数の人に対して朗読し若しくは聴取させ、あるいはこれらの用に供するために著作し又は編集すること。

十四  政治的目的を有する演劇を演出し若しくは主宰し又はこれらの行為を援助すること。

十五  政治的目的をもつて、政治上の主義主張又は政党その他の政治的団体の表示に用いられる旗、腕章、記章、えり章、服飾その他これらに類するものを製作し又は配布すること。

十六  政治的目的をもつて、勤務時間中において、前号に掲げるものを着用し又は表示すること。

十七  なんらの名義又は形式をもつてするを問わず、前各号の禁止又は制限を免れる行為をすること。

 

 「定義」と言っているが、これは例示であって定義 definition ではない。内容に混乱と矛盾があり、国家公務員法などによってすでに規定されていていまさら規定するまでもない無駄な規定も多々あるので、実のところ「定義」は難しいだろう。なにより、うかつに「定義」などしようものなら憲法違反の本質を明々白々に示すことになるから、間違っても定義などできないのである。それにしても用語が不適切である。「政治的目的」というと、高遠な政治的理想のことだと思ってしまうが、人事院官僚はそのような高遠な発想とは一切無縁のようで、「政治的」な狙いという程度の単純な事柄を指すだけである(「政治的」の中身もきわめて卑近なものに限られる)。

 「政治的行為」の6の一は、「公私」と一括するが、上述のとおり、これでは「公私」混同である。職員が公私混同しているのではなく、人事院自身の思考様式が公私混同なのである。「職名」「職権」は公的なものであり、何も政治的目的に限らず、6の二のようにそれを公的に濫用することは公務員法がすでに禁ずることであって、人事院規則制定の必要はない。そもそも「任用、職務、給与」などの利益供与・不利益供与などは、任命権者でなければ実行できないことであり、わざわざ人事院総裁が一般職の公務員に対してくどくどしく説諭するようなことではない。

 問題は「私」的な「影響力」である。まさか「職名、職権」などを私的に行使するということはありえない(すれば官名詐称で犯罪)。どのような私的影響力を考えているのか不明だが、「職務専念義務」から解放されている私的生活の場面について、介入干渉を宣言するものであって、公務員法制や労働法制に違反する。当然ながら明らかな憲法違反である。

 6の四は、国家公務員に賄賂を渡す場面を想定しているわけではない。6の三と四は、政党を含む政治的団体の会費・寄付金などの取り扱いを包括的に禁じているのである。職場で勤務時間中におこなうのはすでに公務員法によって禁じられているから(「政治」とは無関係なその他の金品のやりとりも全部同じ)、ここでは勤務時間外に自宅など職場外でおこなう場合も禁止されるというのである。国家公務員と公立学校教員は、政治的団体の結成はできないものの、ひっそりと加入する程度は許されるが(6の五)、役員になることはもちろん会費・寄付金を集める会計係も絶対にできないというのである。

 勤務時間外の職場外での行為(一般職国家公務員が政党機関紙名のはいったチラシを配布)が摘発された前述の堀越事件は、6の七によるものである。機関紙の編集どころか配布も許されないというのだが、機関紙の配布と言っても毎日何百部も配達するというわけではなく、ビラをたとえ1枚でも人知れずポストに投函する程度のことが禁止されるのである。もっとも「公明新聞」はだめだが、「聖教新聞」ならば差し支えないようで、「政治的行為」の制限の恣意性が際立つ規定である。

 政党機関紙でなければよいかというとそういうわけでもない。2015年9月、北海道議会で自民党県会議員が、地方公務員法にもとづく職員団体である北海道高等学校教職員組合連合会が組合員に配布したクリアファイル(フォルダ)に「アベ政治を許さない」と印刷されていた件について質問をおこなった。これを受け、北海道教育委員会が「調査」と称して道内の教職員に文書による申告を求める事件があった(http://dokokyoso.jp/?p=664、http://dokokyoso.jp/?p=956)。全生徒に配布したとか、校内(構内)に掲示したとかいうわけではなく、クリアファイルが職員室の組合員の机上に配布されたというだけのことだが、6の十三によれば、この程度のことであっても違法行為となるのである。どういうことかというと、「政治的目的の定義」の5の四に特定の内閣を支持し又はこれに反対すること」とあり、「アベ政治」への言及が禁止される「政治的目的」をもった「政治的行為」とされたのである。

 教職員組合が数千枚を配布したから「人事院規則14−7」に違反するというのではない。たとえ自宅で紙片1枚に「アベ政治を許さない」と書き、それを翌日休憩時間に同僚に見せたり(「回覧に供し」)、机上に置いたりしても(「掲示」)、「人事院規則14−7」に違反するのである。「人事院規則14−7」の憲法違反は明らかであろう。

 

❖ 「人事院規則14−7」の問題点 ⑶ 国家公務員法の「委任」の範囲を逸脱

 

 「人事院規則14−7」は、国家公務員法第102条第1項によって委任されたうえで、制限(禁止)される「政治的行為」について具体的に定めている、ということになっている。しかし、実際の「人事院規則14−7」は、以下のとおりこの国家公務員法の条項が「委任」した範囲を大きく逸脱して、権限もないのに広範な制限事項を規定している。

 国家公務員法の条文はつぎのとおりである。

 

第百二条  職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。

 

 「あるいは」以下からみてゆく。

 

 (a)「選挙権の行使を除く他」という表現はきわめて危険性を帯びたものである。「選挙権の行使」以外のあらゆることが、人事院の行政裁量で規制対象になりうると言っているかのごとき字句である。この「委任」をうけて、人事院は実際にやりたい放題の規則を定めたのである。このような事実上の白紙委任を容認する国家公務員法第102条はすでに法令違憲である。

 (b)さらにいうと、「選挙権の行使」それ自体もありうるという文言になっていることに留意すべきである。これは、人事院規則によって剥奪することが可能なのは「選挙権の行使」以外であると言っているだけなのである。「選挙権の行使」は人事院規則による剥奪はないが、国家公務員法の「服務」に関する条項での規制対象であって、ただし今この場で剥奪するところまではしないでおく、と言っているのである。選挙権は、犯罪による公民権停止でもなければ剥奪や「制限」の対象となるものではないが、公務員(公務労働者)の「服務」について定める条文でどうとでもできるという、おそるべき含意がこめられているのである。罪刑法定主義を根本から否定するもので、この部分も明らかに憲法違反である。

 「あるいは」の前はどうだろうか。

 (c)「あるいは」以下で人事院規則に不当に広範な委任をおこなう国家公務員法第102条自体が憲法違反といわざるをえないのであるが、その一方で、「あるいは」以前の字句は、それとは正反対の規定になっているのである。(a)でみたこととは矛盾するのであるが、国家公務員法第102条の「あるいは」の前は人事院規則には限定なしの権限を与えているわけではない。にもかかわらず、「人事院規則14−7」は国家公務員法第102条から逸脱して、越権で無限定な規制を創設しているのである。

 「又は」「若しくは」「あるいは」が多用されていていささかわかりにくいので(わかりにくいというより、あまりにも悪文であり、法律の条文としては失当なのだが)、制限(禁止)される「政治的行為」なるものを全部列挙すると、つぎの10とおりである。

 

⑴ 政党のために、寄附金その他の利益を求めること。

⑵ 政党のために、寄附金その他の利益を受領すること。

⑶ 政党のために、寄附金その他の利益を求めることに関与すること。

⑷ 政党のために、寄附金その他の利益を受領することに関与すること。

⑸ 政治的目的のために、寄附金その他の利益を求めること。

⑹ 政治的目的のために、寄附金その他の利益を受領すること。

⑺ 政治的目的のために、寄附金その他の利益を求めることに関与すること。

⑻ 政治的目的のために、寄附金その他の利益を受領することに関与すること。

⑼ 政党のために、人事院規則で定める政治的行為をすること。

⑽ 政治的目的のために、人事院規則で定める政治的行為をすること。

 

 「人事院規則14-7」は、このうちについて追加的に具体的事項を定めるのである。つまり⑴から⑻は、すでに法律(国家公務員法)が定めてしまっていて、だけを規則(人事院規則)が追加するのである。

 ⑼⑽の前に、⑴から⑻について検討しておく。

 「その他」の範囲・意味が問題となる。人事院規則が他の場所でよくやるように、「その他」とは、それ以外のとにかく全部であるということであれば、なんでもかんでも含まれることになるが、国会制定法ともなればまさかそんな「解釈」は許されるものではない。妥当な解釈としては、「求める」とか「受容」の対象となるものであるから、端的には現金、現金以外としても金銭的なもの、最大限に拡張しても物品的なもののことである。「これらの行為に関与」してはならないとなれば、そこでは金銭かせいぜい物品の授受をしてはならないというのであり、それらとは懸け離れた行為、つまり「人事院規則14-7」がずらずらと並べ立ててみせた、一般職公務員の全生活に及ぶような事柄は、いささかも関連性を有するものではない。

 したがって、これら⑴から⑻に、「あるいは」で付加される⑼とが突然、金銭や物品の授受をはるかに超える広範な行為について定めることは、到底許されるものではない。「あるいは」の後に、「あるいは」の前のことと別次元の、全面的な事項を追加するくらいなら、「あるいは」以前などおく必要がないわけで、条文としては、「職員は、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」だけにしておくべきだったのである。もちろん、ことが基本的人権のなかでもとりわけ重大であり、事後の取り消しや補償が不可能な事項について、趣旨も意味も目的も不明な条文で制限・剥奪しうることを宣言したり、まして行政庁の規則に丸投げするなどいかにしても許されるものではなく、こんなものでは内閣法制局の審査も通らないだろうし、法律の条文としては提案されることすらありえないものであろう。⑼とは、⑴から⑻に対応する程度の、同次元のものであるべきで、しかもあくまで付加的なものでなければならなかったのである。

 

 

(終)