1 「諮問」と「答申」のからくり
「学習指導要領案」は、「現場」の小中高等学校・特別支援学校の教員や、「専門家」たる大学教員、さらに「民間人」を含む中央教育審議会(中教審)の答申を受けて作成されたかのような外観をとっている。国の行政機関である文部科学省初等中等教育局の役人の手による単なる行政文書などではない、という印象が与えられているのである。
しかし、中教審は純然たる文科省内の機関であり、文科省外部の独立的な「第三者機関」ではない。「第三者的機関」ですらない。そのうえ、「諮問」「審議」「答申」の全過程を具体的に検討すると、「諮問」される「原案」の作成はもちろん、「中教審委員」の選任、「審議」の進行、「答申」案の内容は徹頭徹尾、文部科学省職員のコントロール下におかれている。「学習指導要領」は、すべて文科省の官僚が作成した行政文書であるというほかない。
このような事情について、2020年実施予定の「高等学校学習指導要領」のうち、教科「地理歴史」・教科「公民」についての「中央教育審議会」による審議過程を具体的にみてゆく。
「高等学校学習指導要領」の教科「地理歴史」と教科「公民」に関する改正は、 「中央教育審議会」内の「 初等中等教育分科会 」内の「 教育課程部会」内の「高等学校の地歴・公民科科目の在り方に関する特別チーム 」、さらにこの「特別チーム」の下の「社会・地理歴史・公民ワーキンググループ」による「審議」を経ておこなわれた「答申」にもとづいておこなわれた。「中教審」の組織は、全段階にわたって上位の組織が下位の組織を統括管理している。
この「特別チーム」とその下部の「ワーキンググループ」による審議過程を概観する。「特別チーム」では2015年11月12日の第1回から2016年6月27日の第5回まで(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/062/index.htm)、「ワーキンググループ」では2015年12月7日の第1回から2016年6月13日の第14回までの審議がおこなわれた(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/071/index.htm)。
「ワーキンググループ」の全14回の会議のうち、第5回は小中学校について、第8回と第11回は「資質・能力」についてテーマが限定されるが、おおむね次期要領の教科「地理歴史」と教科「公民」の内容、さらに両教科内の各科目の内容について検討がおこなわれた。一部の委員は議題によっては欠席するようである(なお、40人の委員の各会議ごとの出欠状況はわからない。出席しても発言しない例も少なくないのかもしれないが、印象としては出席率はあまり高くない)。
前者が後者を統合制御していることは、会議の日時からもわかる。すなわち、上位組織(特別チーム)によって下位組織(ワーキンググループ)に任務が与えられ、下位組織は作業を終えると結論を上申し、上位組織がそれを踏まえて、さらに上位組織(教育課程部会)から与えられた作業を終えて結論を上位組織に上申するのである。
委員とその統合管理者もそれにみあった配置がなされる。全ての段階で上位組織の委員が下部組織の主査・副主査となり、各下部組織の審議過程を全部統合管理する。すなわち、「特別チーム」の23人の委員(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/meibo/1364597.htm)のうち、10人が「ワーキンググループ」(40人 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/meibo/1365201.htm)の委員となり、「特別チーム」の委員の土井真一(京都大学教授、法学)が下位の「ワーキンググループ」の主査となり、主査代理の原田智仁(兵庫教育大学教授、教育方法?)とともにこれを統括する。
この「中教審」の上意下達のピラミッド型構成体は、文部科学省から独立した組織ではない。「中教審」の全構成体はそれに対応する文部科学省の各教育行政部局によって設置され、委員が指名され、全過程が直轄運営される。これは、組織の設置・委員の任命という構成的側面に限らない。「中教審」のすべての「審議」過程は、逐一、文部科学省の教育行政部局によって直轄運営される。
「特別チーム」「ワーキンググループ」という最下部組織から、入れ子構造をとりつつ順に上部組織へと上昇してそこで包含統合され、これが何段階も繰り返されて最終的に最上段の「中央教育審議会」にいたる。各段階において、それに対応する文科省教育行政部局の課員から(形式上は文科大臣から)「諮問」を受け、「審議」をおこない、その結果は下部から上部組織へと報告され統合され、統合された全体が中教審から文科省に「答申」される。
「諮問」は、「学習指導要領はどのように改定したらよろしいでしょうか」と抽象的な形でおこなわれるのではない。最終的に文部科学省に、すなわちその長たる文部科学大臣に「答申」される答申文は、その別紙資料・別添文書を含めて、第1回会議において全部が(今回の「高等学校学習指導要領」であれば)文科省初中局教育企画課によって、審議冒頭に「原案」として一括して示される。
しかも文部科学省は最初に一度だけ「諮問」し、あとは「答申」が出てくるまで黙って待っているのではない。中教審最下部の「チーム」や「グループ」に至るまで、担当課員が複数貼り付いて、統合管理運用する。したがって会議中一番よく喋るのは、文科省初中局教育企画課の課員、具体的にいうと「ワーキンググループ」の場合は大杉教育課程企画室長と梶山主任視学官である。とりわけ大杉室長が毎度毎度の会議の冒頭で延々と原案の説明をおこなう。逐語的な記録として作成された議事録から判断すると毎回2時間程度の議事のうち4割から時に6割ほどが、文科省の役人による説明に費やされる。
(この2名の背後には、当日配布文書の作成・コピー・ファイリング、委員との連絡、会場作り・片付け、進行記録・録音、会議後の記録作成、録音起こし・議事録作成をおこなうおおぜいの課員・係員が、発言することなく待機しているだろう。もちろん、当日資料を内容的に準備し、会議後には各委員から出された意見の取捨選択をおこない、次回会議に修正して再提出する資料の内容について具体的に検討し、それを決裁文書にまとめて稟議にかけるのも彼らであろう。)
企画室長と主任視学官のくどくどしい説明のあとの残りが各委員の発言時間となるが、時間の制約により発言時間を制限される。内容に関係なく発言通告順に指名され次々と発言するので、委員同士の討論にはならず、言いっ放し状態となる。「原案」についての質問には「事務局」である大杉室長や梶山視学官が答えるが、だんだん主査代理が答える場面が増える。主査代理の原田智仁は、一応大学教授であるが専門の研究者などではなく、高校教員から文科省職員となり、そこから天下りで教員養成系の単科大学である兵庫教育大学の教授になった(jerass.jp/wp-content/uploads/2015/11/harada-genko.pdf)。原田は、司会として会議を進めつつ、早々に馬脚を現して「提案者」として振る舞う。文科省役人時代にこのような審議会の運営を(背後に控える事務局の課員・係員として)担当してきたのであろうが、今回はお客さんであるにもかかわらず、つい接待側だったころの習性が出てしまい、立場を忘れて(しかし与えられた本来の役割に忠実に)かつての同僚たちに協力するのである。
各委員のうち、小中高校の学校教員は、なんらかの「実践」を評価されて「現場」から選抜され、中央教育審議会委員として上京してくる。選考するのは文科省である。この高揚感から、第1回会議では彼らは自己の実践を誇らしげに披露する。しかし、たとえば神戸大学附属中等学校で、文科省指定の科目「公共」の試行結果を携えて出席したはずの中等学校教諭が、詳細を質問されると自分がやったわけではないのでわからないと白状し、以後はときどき「原案」について部分的に「評価」してみせるのがせいぜいとなる。こうして小中高校の学校教員らはだんだん寡黙になる。彼らはおおむね「原案」に対して迎合的で、ときどき翼賛的発言をしたり、「原案」に対する根本的疑義を呈して重大状況をつくりだす大学教授らに果敢に挑戦して、お役目を果たすこともする。
小中高校の教員や、おおむね教育行政に協力的な教育系大学教授の委員らをさしおいて大活躍するのが、教科「地理歴史」や教科「公民」の各科目が内容とする分野の研究者である大学教員らである。これらの委員からは、「原案」についての根本的な批判が続出する。その発言内容たるや「中教審」の(下部組織の)委員の発言とはとても思えず、批判的な団体や個人の見解かと見紛うような爆弾発言が目白押しとなる。
しかし、発言をきっかけに討論となることはまれである。前述のとおり発言通告(机上の名札を立てることで意思表示)によって割り当てられた順番にしたがい各自がてんでに発言するので、討論がおこなわれてしかるべき根本的な内容にわたる意見であっても言いっ放しで、ほとんど常に馬耳東風、馬の耳に念仏、豚に真珠、猫に小判状態になる。
逐語的な議事録が作られ、事務局も当然気にはしているのであるが、発言者は専門分野の錚々たる教授たちで、しかも功なり名を遂げた学長や副学長までいることもあって、事務局の素人官僚が正面から反論するなど到底ありえず、ひたすらご高説をうかがう形になる。しかし、それだけである。毎回の2時間が終わると、言わせっぱなし聞きっぱなしで全部“スルー”する。些末な字句の訂正程度であれば別だが、次回会議に提案される「原案」の修正に反映させることは絶対にない。これが延々と何度も繰り返され、最後の第14回では、何回も発言したのに「ボツ」になったという恨み節も出る(後述の大石委員)。
第14回の最後に、最終案のとりまとめについては主査と主査代理に「一任」することとしてよいか、と司会をしていた主査代理の原田が自分から唐突に提案し、すかさず「異議なしの声」があがり、茶番劇があっけない幕切れを迎える。議事録から座の白け具合、怨嗟にみちた沈黙がひしひしと伝わる。最初は張り切っていた小中高校の教員は蚊帳の外でおとなしく待機し、自己の意見を披瀝する大学教授らは徹底的に無視されるなか、元同僚の主査代理の協力のもと徹頭徹尾事務局主導で「中教審」による「審議」の外観のもとに、文部科学省の教育行政部局がつくった「原案」が、細部の瑣末な手直しを経て、基本的にはそのまま文科大臣あてに「答申」されることになったのである。
2 中教審委員による指導要領改訂原案批判
⑴ 指導要領における根本概念「近代化・大衆化・グローバル化」の批判
歴史学や政治学、哲学などの研究者である委員の発言をみてゆく。
文科省教育企画課が作成した教科「地理歴史」の「原案」においては、「近現代の歴史の大きな転換」として「近代化」「大衆化」「グローバル化」の3つが挙げられていた。この根本的部分について、「ワーキンググループ」第3回会議で集中的に批判が加えられた。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/071/siryo/1381942.htm 議事録をウェブブラウザで表示するか、またはそれをpdfに変換して保存・表示したうえで、検索機能〔find コマンド〕で人名や文字列を入力すれば、該当箇所を容易に見つけることができる。発言の一部を言葉通り入力するのがもっとも手早い。)
(i) 羽場久美子委員(はば・くみこ、青山学院大学大学院国際政治経済学研究科教授・政治学)が、「大衆化」を問題視する。
【羽場委員】 最初にこれを見させていただいたときにちょっと気になったことなのですけれども,その近代化とグローバル化の間に大衆化という用語がありまして,近現代を考える際に,果たして大衆化でいいのか。ここで話していい話なのかも分からないんですけれども,大衆というと,やはりそのイメージとしては,動かされる集団というようなところがありまして,近代とグローバル化の間に挟む際に大衆化だけで良いのだろうかという違和感がありました。
例えばその大衆化と併せて市民化ということを入れるとすると,やはり市民の場合には,その考え,主張する個体ということがあると思いますので,生徒に教える際に,あなたは大衆の一人ですよというのか,それとも近代になって,単なるマスだけではなくて,自らが考え,行動する主体としての,まあ,これはどういう用語を使えばいいのか分からないんですけれども,市民とかいう言葉を併せて教えないと,結局その主体ということが歴史にどう関わっていくのかという部分が抜け落ちるような気がいたしました。
羽場委員の指摘に対しては、愛知県と長野県のいずれも高校の教頭がふたりで、趣旨のよくわからない、しかしながら原案を擁護する姿勢だけは明白な意見を述べた。しかし、提案した事務局からは「大衆化」の意味やその根拠について説明もなく、有力な反論も一切なされなかった。そして最終的な「答申」はこの語をそのまま残した。
(ii) 羽田正委員(はねだ・まさし、東京大学副学長・イスラム史)は、「グローバル化」を強調していながら、「原案」がそれを正当に理解していないことを指摘する。
【羽田委員】 育成すべき資質・能力のマルが三つありますけれども,その一番下に「国際社会に主体的に生きる日本国民としての自覚と資質」という文章があります。この資質・能力を育成すべきだとするのはやや古い見方ではないかと思います。
これまで文科省から頂いている様々な書類に,「グローバル化」という語句が随分たくさん出てきています。実際この構成イメージのところでも,一番最後に「グローバル化」が非常に重要なポイントとして出ています。「国際社会」は,基本的には国を単位とする社会。国連など多くの国際機関はこの発想に基づいて作られています。一方,「グローバル化」は,国の国境が相対化され,例えば国境なき医師団ですとか様々な民間企業ですとかそういったものが必ずしも国の意志とは関わらずに活動するという状況を言います。とすれば,国際社会で主体的に生きているだけでは,世界の現状に対応できなくなるのではないかと思います。
要点だけなのでいささか分かりにくいが、「国際社会」という場合の「国際 inter-national」とはあくまで、国家 nation を単位とするものであるのに対し、「グローバル化 globalization」という場合には、globe すなわち「地球 」ないし「世界」の次元のものであり、それはもはや国家 nation 単位でとらえられるものではないというのである。したがって、グローバル化した現代世界を「国際 inter-national」の観点で、つまり国家 nation を単位として見る「原案」の叙述は適切ではないというのである。この指摘の直後にも、さきほどの高校教頭が番犬のように登場して「原案」を擁護するとんちんかんな反論をしてみせるなど、おかしなやり取りが続くが、討論になることもない。事務局の追加説明・反論も一切ない。結局、「答申」では、「グローバル化する国際社会」という、支離滅裂な語が使われることになった。文科省の教育行政担当官僚は、羽田委員が指摘したことの意味がまったくわからなかったようである。
(iii) 大石学委員(おおいし・まなぶ、東京学芸大学教授・日本史)が、のこる「近代化」を問題にする。
【大石委員】 前回もちょっと言ったことと関わるんですが,この近代化のイメージだけで,本当に私たちの歴史的位置というのは分かるんだろうかということなんですね。それを生徒たちに伝えたい,あるいは自分たちの位置を確認してもらいたいといったときに,この工業化で全て話をしてしまっていいか。例えば最初にある現代の諸課題の歴史的背景といったときに,農業とか水産業とか一次産業が課題がないわけじゃなくて,過疎の問題含めて,むしろ深刻な課題ですよね。それをこういうヨーロッパ基準で全部話をまとめていって本当に日本の諸課題を解決する力があるだろうか。私はやっぱり家族の問題含めて,一つ前の,今,和風とか日本風とか言われている私たちの生活の基底にある文化とか生活ですよね。そこのところをベースに最初に持ってきて,その後,こういう話をしないと,土台がない話になる。おかしな近代化をいつまでも追い掛けることになるような気がします。
大石委員は「ワーキンググループ」の第7回では次のように発言している。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/071/siryo/1381957.htm)
【大石委員】〔……〕平和という問題は,これから先,子供たちにも児童たちにも伝えたい,私たちが伝えなければいけないことだろうと思うのです。そうしたときに,近代化で平和を語れるかといったとき,日本の歴史を見たときに,100年間戦国時代というものがあって戦をしていて,その後,265年のパクス・トクガワーナ〔“江戸時代の平和”〕があるわけです。そこを私たちが学ぶこと,武器が蔓延していた社会から,武器が管理される社会へ,それから人を殺して出世していた時代から,人を殺すと罪に問われる時代,そのような転換というのは,もっと私たちは積極的に学んでよくて,それは先ほど,〔明治維新以降は〕時代を超えた転換なのだ,そこまでは分かるのです。それは私も賛成なのですが,それを近代化という言葉でくくると,落ちてくる部分というものがあって,もう少しこれを幅を広げた方が,時代は問わないとは言っているのですけれど,近代化とか大衆化と言ってしまうと,少し素材が固まってきてしまうというのですか,狭くなるのではないかという気がします。
江戸時代の研究者である大石学教授は、「原案」の、明治維新礼賛、大日本帝国肯定の「近代化」史観(薩長史観、皇国史観)を批判しているのである。こんなものを受け入れれば、基本構造が解体することになるから、当然「ボツ」になる。
「近現代の歴史の大きな転換」だとされる、「近代化」「大衆化」についてはそれ自体に、「グローバル化」についてはその取り扱い方の不適切さに疑問が呈され、こうして3概念すべてに重大な批判がよせられたにもかかわらず、まともな反論・検討もいっさいおこなわれず、それらはそのまま「答申」における新科目設置の重要概念となるのである。
⑵ 国家主義的発想の批判
国民の地位を「大衆」に低下させるいっぽうで、「グローバル化」の時代にいたってなお「近代化」した国家に固執する基本姿勢に、岡崎竜子委員(金融広報中央委員会事務局金融教育プラザリーダー)が疑義を呈する。(「ワーキンググループ」第6回 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/071/siryo/1381955.htm)
【岡崎委員】「自国を愛し,その平和と繁栄を図ることが大切であることの自覚」ですが,やや違和感がございまして,本日までの議論を踏まえますと,「よりよい社会を実現し,各国の平和と繁栄を図ることが大切であることの自覚」などとした方がよろしいのではないかと思います。次の項目に「各国が相互に主権を尊重し」とありますので,各国の尊重も謳われており,バランスがとれているのかもしれませんけれども,自国を愛するということがやや強調されすぎているのではないかなという印象がございますので,申し上げさせていただきました。
審議の終盤に至り、岡崎竜子委員は旗幟を鮮明にする(「ワーキンググループ」第13回 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/071/siryo/1381965.htm)。
【岡崎委員】 〔……〕ただいまの御説明で国家の視点が弱いという意見があったのでという理由で,「社会に参画し」という表現がありました随所に「国家・社会に参画し」と加筆をされています。私は,これは是非やめていただきたいと思います。
「社会に参画し」では,全く不自然ではなかった,非常に好ましい表現ということで,むしろお願いをして,随所に増やしていただいたところですけれども,まず,国家は社会の一つの形態でありますので,これと並列して「国家・」を加えるのは不自然だと思います。
また,「・」は並列ですので,国家に参画し,又は社会に参画しということを表現していることになると思いますけれども,1人1人の児童生徒が将来国家に直接参画するという表現自体が不自然だと思います。国政選挙で投票をするとか,国家公務員として働くとか,そういう場合は直接に参画しているといってもおかしくないかと思いますけれども,国家の在り方を考えるとか,議論をするとか,何か意見を発信するとか,そういう場合に国家に参画するというのは不適切ではないかと思います。
社会の中のいろいろな地域コミュニティであるとか地方自治体であるとか,いろいろなレベルの社会の仕組みに対して参画していく態度を養うとか参画していくということは重要だと思いますけれども,「国家に参画し」と直接入れるのは不適切ではないかと思います。
金融広報中央委員会は、都市銀行など主要な金融機関による一般国民向けの広報機関であり、もとより国家主義に反対して当然の?団体ではない(https://www.shiruporuto.jp/public/aboutus/container/gaiyo/iinkai.html)。この岡崎委員の批判を受け入れると「原案」は根底から覆ることになる。それどころか、国家行政機関が教育内容をその根本から枝葉末節にいたるまで統括管理する現行の文部科学行政の全体、当然その一部としての「学習指導要領」体制は解体する。主査の土井や事務局はあわてて、教育基本法の条文をもちだし、そこで「国家・社会」と中点付きで、しかも「国家」が頭にきているという無意味な反論をおこなった。
この最終盤の第13回では、他の委員からも国家主義批判が噴出する。池野範男委員(いけの・のりお、広島大学教授・教育学)は、はっきりと「反対」だと言う。
【池野委員】 私は「国家・社会」に反対をします。土井先生〔主査〕が先ほど説明された国家及び社会の形成者という意味と,〔答申原案における〕国家・社会に参画するというのは違うというのが私の考えです。というのは,国家及び社会の形成者というのは国民や市民という意味だと思うのですけれども,ここの国家・社会は外側にある国家・社会の意味なので,子供たちをそこへ参画するというのは,社会にはいいと思うのですけれども,やっぱり国家に参画させることは一種の動員だと受け止められると思うので,私は反対します。
さらに村松剛委員(むらまつ・つよし、弁護士)も発言する。
【村松委員】 読んでみますと,「人間と社会の在り方に関する課題を主体的に解決しようとする態度を養うと共に,多面的・多角的な考察や深い理解を通じて涵養される人間としての在り方生き方について自覚,自国を愛しその平和と繁栄を図ることや,各国が相互に主権を尊重し各国民が協力し合うことの大切さについての自覚を深める。」生徒が課題を主体的に解決するという,自分の能力を養っていくという話から,いきなり国家の話に変わっていくのです。思考の流れからすると,自分のことを見つめて,社会のことを考えて,その延長線上に国家のことがあるのだと思うのですけれども,社会というところが抜けています。社会に対する帰属意識を高めるだとか,社会の共同体意識を持つとか,そういうところがないまま,いきなり国家に飛んでいる。決して私たちは国との関係でこの公共の授業をしようと思っているわけではないのですが,こういった全体の書きぶりを見ると,外部に対するメッセージでは,どうしても対国家との関係が強いというようなメッセージになってしまうのではないのかなと気になりました。
これらは終盤となった第13回でのできごとだったが、先に触れた大石学委員も第7回で次の通り発言している。(「ワーキンググループ」第7回 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/071/siryo/1381957.htm)
【大石委員】 細かいところはさておいて,両方,世界史,日本史に関わったときに,学ぶ主体としての生徒というように,まず軸を据えたときに,恐らく「日本史に関わる探究科目」で構成される要素というのは,現代の日本市民として,現在日本社会とか日本の国家とか政治,そのようなものを知っておきたいこと,あるいは今の成り立ち,現在の社会の成り立ちに関わる歴史というものが構成要素として出てくるだろうと思います。世界の方とすると,今度は世界市民,地球市民として生徒たちがこれから生きていくときに,どのようなことを知っておくべきか,あるいはどのような課題の解決の仕方を学んでおくべきか,そのようなレベルで見ていく必要があって,もちろん総合関係なのだけれども,二重性というのですか,そこのところをしっかり押さえておいた科目の内容構成にしていくべきだろうと思います。
大石教授もまた、岡崎委員同様、国家における国民という枠組みに固執する「原案」の国家主義的発想を批判し、先の羽田正委員と同様、「世界市民」「地球市民」としての観点をとりいれるべきだというのである。
⑶ 教科科目の基本構造の批判
(i) 委員による根本的批判は教科と科目の構成にもおよぶ。まず科目「公共」の名称の根拠についての質問である。(第7回)
【浅子委員】〔……〕必修科目としての「公共(仮称)」というのがどういう経緯で決まったのかというのが,簡単に説明していただければ有り難いなと思う〔……〕
これに対する事務局の文科省官僚の答弁は次のとおりである。
【梶山主任視学官】〔……〕「公共(仮称)」ということがどのように作られたかというところで,あくまでこの「公共」に関しては仮称でございます。ただ,資質・能力のところ,例えば資料5なんかを御覧いただきますと,どのような資質や能力というものが必要なのかというところ,力であったり態度というところでございますが,やはりこのキーワードとして,公共的な事柄に自ら参画しようというようなフレーズもございます。この全体を考えた際に,仮称として「公共」というところがいいのではないかというところがあったのではないかとも思っております。
仮称だといって逃げを打った上で、「というところがあったのではないか」と、なげやりに答える。官僚の無責任の見本のような答弁である。
(ii) 「ワーキングループ」の審議が半ばまですすんだ第7回では、委員から「原案」のいわゆる「π(パイ)型」構成に対して分枝型構成の提案が飛び出した。
【韮塚委員】〔……〕例えば新選択科目と「歴史総合(仮称)」との関係で考えるならば,最初に現行の「日本史B」のような科目があって,歴史の学び方を段階的に通史と絡めながら学び,そしてその上で,現在検討していただいているような必履修科目として「歴史総合(仮称)」を,いわば歴史科目のまとめとして現代の諸課題につながるという形で位置付けていく,このような構想,枠組みにしていくのが,今回の改訂の大きな目的に沿っておるのではないかと私は考えています。
これに別の委員(土屋武志、愛知教育大学教授)が「私も本当はそちらの方がいいかなと思っている立場なのです」などと言いだすにおよんで、実質的な差配役である原田主査代理は、慌てふためく。「選択科目があって,その後,最後に必履修科目があってもいいのだということが,もし皆さん合意というか,そのような考えがあれば,もちろんここで決定はできないのですけれども,それを又高校部会等で議論していただくことは可能ではあると思いますので,もし,そのような意見があれば,私は,もうだめだと言っているわけではございませんので,御理解ください。」
つい本性をあらわしてしまい、「もうだめだと言」う権限があるかのようなことを言う。さらに「ここで決定はできない」と本当のことを言ってしまう。「ここ」とは「ワーキンググループ」である。このグループにはそのような権限はもともとないというわけである。挙句に「高校部会等で議論していただくことは可能」などとトンチンカンなことを言いだす。これはさすがに放置できないので事務局が介入する。
【梶山主任視学官】 今の御議論でございます。御検討いただけるのは非常に有り難いと思っております。ただ,歴史以外の様々な必履修科目の単位数というものを,どう教えていくか。それから,もし選択科目というものを何か受けた上で,必履修を受けるということになれば,全ての生徒にどこまで学ばせるかというところと,その単位数に加えて何単位か必要になるわけでございますので,ここを全体の中で見ていくということが,難しくなっていくのかなと考えます。反対に,必履修科目について,選択のものをやらない限り出来ないという考え方は,全体の中では,どのように考えていけばいいのかなというのはあるのではないかと思っているところでございます。
何を言っているのかよくわからないのだが、言いたいことははっきりしている。新指導要領を準備する中教審の、否、そういう外被はともかく内実は文科省教育行政部局のとりくみという「全体の中で」は、「難しくなっていく」端的にいうなら、そんなことはできないと言っているのである。これに大学の准教授の浅川俊夫が、「現場の感覚からすると,上に乗るということは,この科目が形骸化するおそれがあるのではないかと懸念しています」と、まるで高校教員でもあるかのように「現場の感覚」を僭称して助け舟を出す。かくして「高校部会等で議論」するなどという一大事にはならず、この話は結局うやむやになり、当然、原案通りの「中教審答申」ができあがったのである。