紫禁城全域(楼慶西『中国歴史建築案内』2008年、TOTO出版)
午門(ごもん)の北、太和門からはじまる紫禁城の「公的」空間としての前朝は保和殿で終わり、乾清門(けんせいもん)から奥が皇帝と皇后・側室たちの「私的」空間としての後宮(こうきゅう)となります。
紫禁城の中心軸にそって北上すると、まず、左右に影壁(照壁)が「ハ」の字に張り出した乾清門があり、そこを入ると三つの宮殿(乾清宮・交泰宮・坤寧宮)が連続します。「天」を意味する乾清宮は皇帝の寝殿であり、玉座の上方には清朝第3代皇帝・順治帝の筆による「正大光明」の額があります。雍正帝(ようせいてい、第5代、在位1722−35年)が、この額の裏の小箱に人徳ある皇子の名を記した紙を隠し、死後に取り出して後継者とする制度を定めました。世襲王朝とは言っても、無条件で長子相続とされたわけではなかったのです。実際、第6代(在位1735−95年)の乾隆帝(けんりゅうてい)は、皇子時代は紫禁城外の宮殿(現在のチベット仏教寺院・雍和宮)に居住していたのであり、自分が次の皇帝となるとは思っていなかったわけです。
なお、雍正帝はみずからは康熙帝(第4代、在位1661−1722年)を継承後、乾清宮を寝殿とすることをやめ、養心殿を寝殿兼書斎としました。
「地」を意味する坤寧宮(こんねいきゅう)は皇后の寝殿です。それらの間に建つ交泰宮(こうたいきゅう)には、康熙帝(こうきてい、第4代、在位1661−1722年)筆の「無為」の額が掲げられています。
坤寧宮の北の坤寧門を出ると、御花園(ぎょかえん)という庭園があり、堆秀山の上の御景亭やドームをもつ千秋亭などが並びます。
後宮の中心軸の東西にも数多の四合院が並びます。東には中規模の宮殿群と東六宮(とうろくきゅう)と呼ばれる小規模な(といっても十分に大きいのですが)宮殿群が重合しています。
永和宮は最近になって公開されたようで、工芸品などが展示されています。
景仁宮も同様に工芸品の展示館になっています。東四(ドンスー、とうし)地区の骨董商の Sun Yingzhou が寄贈したという説明がありました。景仁宮は、かつて雍正帝の皇后や、皇子時代の乾隆帝や道光帝(第8代、在位1820−50年)が住んだところです。西太后により紫禁城内の井戸に投げ込まれ殺害された珍妃(ちんぴ、光緒帝〔第11代、在位1874–1908年〕の妃)もここに住んでいました。
この景仁宮の門内の影壁(照壁)は、大理石製で雲のような模様が浮かぶ特徴的なものでした。
東六宮(春名徹『北京』2008年、岩波新書)
西六宮(春名徹『北京』)
(紫禁城の後宮の中心軸上には、乾清宮・交泰宮・坤寧宮から御花園が並んでいますが、その東西にも数多の四合院が並びます。)西には中規模の宮殿群と西六宮(せいろくきゅう)と呼ばれる小規模な(といっても十分に大きいのですが)宮殿群が重合しています。
左の地図は西六宮とその南の養心殿(ようしんでん)の配置図ですが、養心殿の南側にはきわめて重要な機関であった軍機処(ぐんきしょ)が置かれていました。2枚目の写真は軍機処の南にある隆宗門で、ちょうど乾清門前からみて西にあたります。
養心殿は当初は康熙帝の書斎でしたが、帝位を受け継いだ雍正帝は遠慮して康熙帝が寝殿とした乾清宮をみずからの寝殿とすることをせず、こちらを書斎を兼ねた寝殿としました。公務もここでこなしましたから、写真のように、天井に龍のドームのある玉座、「又日新」の額のある寝台、こぢんまりとした書斎がすべて養心殿のなかにあるのです。広大な紫禁城の主が、ほんの片隅でたいていの用事をこなしていたわけです。
中庭の片隅に面した書斎は「四畳半」程度の広さしかありませんが、乾隆帝は、ここに王羲之・王献之・王珣の書を所蔵し、折に触れ眺めていたようです(3つの稀な書を置いたので「三希堂」)。
養心殿の裏門が小さな吉祥門で、そこを出ると北側の西六宮へと通じます。同治帝(第10代、在位1861−74年)の妃が住んだ太極殿(たいきょくでん)や、西太后が若いころ住んだ翊坤宮(よくこんきゅう)などがあります。