冠水していた9月11日には見えなかったが、9月16日国交省ドローン映像には、川表19.9km、巨大クレーンの左下、法面用ブロックの左下、青いシートが掛かっているところの洗掘跡から砂が流れ出した跡が見える。
以下はその洗掘痕?の写真 2015年12月16日
測定棒の紅白模様はそれぞれ20cm、全長2m
迅速測図では河道の岸辺であり、現状では2段になっている高水敷の段になっている部分。
最上層の1mあまりの粘土は河川水が運搬してきたものなのだろうか。
同様に、以下、砂の層に挟まれた粘土は河川水が運搬してきたものなのだろうか。
以下は、迅速測図から各種航空写真に矢印で、上の洗掘痕?を指示したもの。矢印の頭。(沼津高専ページを使用)
ここは、明治初期には河道が広かったが、他と同様、河道が狭まり、その際、高水敷が2段になったのか。その段付きのところに上の洗掘痕がある。
ちなみに、次は「決壊」した200m区間のうち、川表側の半身だけ洗掘されたが、川裏側がのこった上流側の50m。(9月11日、国交省撮影)
一番上層は粘土で、当然人間が積んだものと思われる。